natukusa
ブコメであれこれ書いてたけど、やっぱ階を重ねるの書きづらいなと思ってこっちに来ました。
”海外の漫画市場は、日本に比べて“たいしたことない”「数で見る日本作品の優位性」と「ポリコレ意識すべきか?問題」
https://logmi.jp/business/articles/323891
数日前から自分の周りで話題なんだが、私もざっくりみて「これはさすがに」とまず思った。
前提として、これは「漫画家ミライ会議 これからの漫画家の可能性を考える3日間(2020年12月02日〜12月04日)」内で行われた1コーナー。漫画家ミライ会議全体のログも同じログミーにあります。
https://logmi.jp/events/2458
それで思い出したんだけど、私当時この漫画家ミライ会議を見てたなあと。
主催をしている「ナンバーナイン」は、個人出版の本でも大手電子ストアに卸してくれる配信代行企業で
オリジナル同人活動してる人や、マンガで電子書籍出版やってる人中心に認知が進んでいて
来月開催されるコミティアのカタログでも同社はインタビューされているくらいなので
自分も名前は知ってるしTwitterフォローしてるし当時興味ある回をいくつか見てたはず。
この回はクリエイター、特に漫画を作ってる人向けの場で、商業やアマチュア、SNS投稿や商業出版からの立場など
いろんな切り口で漫画家の生存戦略を語るための、主として「作家に対して作家が話をする場」だと認識しております。
話題の赤松さんの回は、↓ページにある目次を見ても市場や経営の話題を担当しているようで。
https://logmi.jp/business/articles/323888
視聴者数が400人と言われており、視聴者数だけならものすごい大規模な回じゃなく、
普段だったら大学のシンポジウムで開催されてたよねきっと(シンポジウムで参加者400人もいたらすごいと思うけど)
どの話も参考になったりならなかったりそれ違うんじゃないかとそれぞれ思いつつ
それでもやっぱりこの記事の「それは違いすぎるだろう」は段違いだなと感じる。
以下本文から引用しつつ感想書いてきます。
>小禄:「漫画と海外市場」です。
>赤松:ポリコレね。要するに(笑)。
ここでまず、海外市場の動向やマーケティングの話じゃなく、
話の1トピックであるだろう「ポリコレ」というワードを出すというのは驚きはするけど
まあそれだけ最前線の作家には身近で圧のある話なのかな~と思う。
ただ、次の段階が何回読んでもよくわからない。
>赤松:ポリティカル・コレクトネス。「政治的な正しさを、漫画とか映画とかに導入しなさい」みたいな外圧が来ているわけですよ。
>日本の漫画の良さって、鬼滅なんかもけっこう残酷な……進撃だって人を食べる……食人……。
>小禄:カニバリズム的な。
>赤松:ヤバいですよね。
>小林:ヤバいです。ヤバいです。
>赤松:こういうものが、世界で驚きを持って迎えられたりする。ここまで日本漫画というものが世界を見据える段階になった時に、
>もっとグローバルスタンダードに合わせなさいよっていう、圧力的なものが現場に来ているわけです。
「日本漫画の尖った描写が、グローバル化によるポリティカル・コネクトネスの影響でなくなるかもしれない」
と読んでいいんですかねここ。
そう読むとして、疑問点が2つ。。
まず、私もポリティカル・コネクトネスという用語は知っているけれど
私の知ってるポリティカル・コレクトネスって残酷描写を制限するものだったかなあ?って
https://kotobank.jp/word/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8D%E3%82%B9-631565
>人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。
>1980年代ごろから米国で、偏見・差別のない表現は政治的に妥当であるという考えのもとに使われるようになった。
>言葉の問題にとどまらず、社会から偏見・差別をなくすことを意味する場合もある。ポリティカリーコレクト。PC。政治的妥当性。
>[補説]「ブラック」を「アフリカンアメリカン(アフリカ系アメリカ人)」、
>「メリークリスマス」を「ハッピーホリデーズ」、「ビジネスマン」を「ビジネスパーソン」と表現するなどの例がある。
>日本語でも、「看護婦・看護士」を「看護師」、「保母・保父」を「保育士」などの表現に改めたことが、これに相当する。
できるだけ客観性のあるメディアの方が良かろうと思って、辞書からとってきました。
おおむね自分の理解もこの通りなんだが、是非とか良し悪しとかこの際置いといて、
ポリティカル・コネクトネスって「偏見や差別」を前提とした概念ですよねと。
で、元の話題に戻るけど、残酷描写って確かに日本でも外国でも程度は違えど
どこでも制約や規制の強い表現領域だと思うんすが、私が理解する限り
別にここに対する制約とは「偏見や差別」とは関係ないのでは? と。
部分的に偏見や差別問題にかすることはあれど、でも偏見や差別要素がなくても
過激な残酷描写は過激な残酷描写であるというだけで、
社会の中で慎重に扱えよって言われがちなものの代表格だと思うんですが。
だからまず「ポリコレの話をしよう」って流れで、「残酷描写が無くなるかもよ」と出てくるのは
話題の検証とか是非とか以前の、違和感がある。
仮にポリティカル・コネクトネスの概念が全くない世界であったとしても、
残酷描写って人々からは慎重に扱われるものじゃないんですかね。
ポリティカル・コネクトネスの定義に触れたので、ついでに元記事後半で微妙だな~っと思ったところも引用する。
>小林:いや、負けってことはないと思いますよ。仮にめちゃくちゃポリコレに反するようなエンタメがあったとしても、
>これ(現在のポリコレの考え)が10年後とか20年後とか30年後とかにもずっとこのままかっていうと、違うじゃないですか。
>もっというと、10年前って今みたいにポリコレ、ポリコレなんてまったくなかったじゃないですか。
>5年前でもなかったですよ。ここ最近ですよ、いわれたの。
さっき引用したように、ポリティカル・コネクトネスとは1980年代にはアメリカで表出していた概念だし、
日本でも、「政治的に正しいおとぎ話」という翻訳本が1995年に発行されていて、
私自身、ポリティカル・コネクトネスという用語自体は、
自分で映画を選んで読んだり情報を集めるようになって自然と知った専門用の類で
たぶん世紀の変わり目の約20年前には見たことある用語だった。
ちなみに、当時からすでによく批判されてたなという覚えがある。
アメリカ映画でよくあるポリティカル・コネクトネス例って、「出演者の人種にバリエーションを持たせる」なんだけど、
「映画の中から偏見や差別を撤廃するために(目的)、複数の肌の出演者を採用する(手段)けど、
話の展開で有色人種すぐ死んで白人ばかりになる(目的の転倒)のダメだろ」みたいな。
当時よく見たタイプの映画を思い返しても最もな批判だと思う。
(こういう批判をよく見たことも影響してか、自分の中ではポリティカル・コネクトネスって
「反差別に消極的賛成」という態度の中で好んで用いるやつ、というイメージが長くある)
話それたが、「10年前って今みたいにポリコレ、ポリコレなんてまったくなかったじゃないですか。」を読んだときは
最近知った人には最近知った言葉なんだなあと思った。
2点目。
ずらずらとポリティカル・コネクトネスの話を描いたが、
この話題はそういう狭義の「ポリコレ」話じゃなくて、おおざっぱに「海外市場からやってくる規制」の話をしたいんですよ、という推測もたつ。
文脈から言ってもこの「海外市場」は北米、アメリカを主にさしてると思っていいよね。あとでアベンジャーズの話も出るし。
(しかし、元の話題であるマーケット面での「海外市場」を考えるなら、伝統的に日本文化の入りづらい北米圏より
親和性の高い東アジア圏あたりを焦点にした方がいいのでは?そっちの方が今はよっぽど強い規制問題の壁があるし)
まあそこでもやっぱり、「アメリカ文化圏で残酷描写が受け入れられないってある??」という疑問がわく。
というのも、日本でも人気の高い「ウォーキングデッド」だとか、
いまや現代アメリカ文化を代表するテレビシリーズになった「ゲームオブスローンズ」とか、
ここ数年で一番人気だろうアメリカドラマ「THE BOYS」だとか、一目見ればわかるけどエログロバイオレンスてんこ盛りで。
アメリカ人、こういうのをスナック感覚で次の更新を待ち遠しく思ってるのであれば、
進撃の巨人でも鬼滅の刃の残酷描写も(実写とアニメの差はあれど)「新鮮に」驚いてるってこたあなくない??
むしろ想定される受け方って「これ(残酷描写)知ってるやつ!」じゃない????
たとえば「ウォーキングデッド」のようなゾンビものは食人描写が前提にあるジャンルなわけで、
なんなら進撃の巨人は向こうでゾンビもの扱いされてるとその昔聞いたことある。
新鮮に驚かれてるとすれば、食人描写云々じゃない箇所なのではないかなあ。
漫画から離れると、国内テレビゲーム分野だと今や欧米産ゲームってかなり人気なんですが、
どうみても向こうの方がグロい作風多いし、なんなら「日本のコンシューマー版だけえぐい演出を削る」は結構ある。
(上記踏まえると、そもそも日本文化がアメリカ文化と比べて制約のない文化か?と考えるのは難しい。
まあ、業界内レーティング機構(CERO)のあるゲーム業界と比べて、出版業界の空気が違うのやもしれんけども)
ここまでつらつら書いてきたけど、
まんが図書館Zを運営する赤松さんも、多くの電子書籍を配信するナンバーナインも
外資プラットフォームであるApple、Google、Amazonとは嫌でも付き合いがあるだろうし
その中には散々煮え湯を飲まされたこともあるだろうというのは想像に難くない。
過去にもまんが図書館Zのアプリがリジェクトされたとご自身がツイートしており
外資に大きな流通の首根っこを握られることの怖さも、それに対抗していくべきという意見も同意しています。
実際、2020年のBLM運動の盛り上がりとともに降ってわいた舞台「ヘアスプレー」の演者を固定した問題をみても
アメリカ文化がアメリカだけのこと考えて制約をつけだしたら
アメリカとは国土や歴史・文化的背景が全く異なるゆえに実質全く流通できなくなるだろうに、
アメリカ発のプラットフォームが根付いている国は壊滅的被害を受けるだろうと、かなりすぐそばまで実感したわけで。
けれど、その生身の危機感に対して
「日本漫画の尖った描写が、グローバル化によるポリティカル・コネクトネスの影響でなくなるかもしれない」
という警鐘を鳴らすには、アメリカ文化・市場への理解のピントがずれている気がして
ここまででまだ全然序盤なんだが「このあとも信用できる話かな…?」とかなり不穏さがすでにある。
根幹の問題意識には同意できても具体が全く見えないこの一連の話に
「そうですよね、同じ意見です」と頷くことはできないし、
過程ではあまりにも他文化への無理解を批判なく表に出しすぎてないかな…。
これらに同意するとは、
「アメリカ文化に残虐な描写はない(から日本の漫画に新鮮に驚くのだ)」
とか、そういうレベルの話になりませんか。
例えばこの場で誰かが「あれ、でもアメリカにもゾンビ映画あるじゃないですか。
それなのに、作家さんのところには『海外意識して残酷描写なくしてください』って話来てるんですか?
それを描くとプラットフォームに取り下げられる可能性があるんでしょうか?」と指摘してたら
この場でもっと的確な問題の掘り下げもできたろうと思う。
ゾンビ映画がアメリカにはあるって、さすがにこの場の大人はみんな知ってる情報でしょうよ。
なんでその話とこの話がつながらなかったんですかね。
「ポリコレ」という用語の印象と、向こうの文化が脳内でつながらなかったんでしょうかね。
情報や認識の齟齬に立ち止まらず、危険視だけを発信する一連の話に同意するということは、
ここに含まれる他国への無理解と反省のなさも飲み込むことにならんですかね。
ひと段落だけで長々書いてしまった。
>(赤松)そういうものは「是か非か」というのを漫画家のほうである程度、意見を統一したいんだけど。
>ただし、グローバル化してあんまり尖ったものがなくなった作品の売上がよかった時に
>「あれ、それはいいのかもしれない」っていうことになっちゃう。
大意から最大限に好意的に解釈すれば、
「海外からの制約・規制をいいものと思い込んで、無批判に取り込みかねないから漫画家内で理解を促そう」
とかそういうことなのかなと。
「是か非か」とは。
例えば狭義のポリティカル・コネクトネスなら「看護師・保育士」とか、英語の「Ms.」といった
用語の存在が含まれるんだが、その使用を禁ずるということはさすがにない、ないのか?
そこの定義がこれまでの流れでぐらぐらなので、まずこの話をほかでもするならまず具体を出さないといけないのでは。
そもそもの話として、ここまでの内容で前提として語られている
「グローバル化してあんまり尖ったものがなくなった作品」て生じるのかなあ。
Netflix限定の日本オリジナルアニメ作品は、まさに現在進行形の「グローバル化した日本の作品」だけど、
攻殻機動隊だ、バキだ、ケンガナシュラだ、今度はスプリガンだと
最近の国内日本アニメの主流からはちょっとみないくらいハード路線の世界観が多いのでは。
(あれらはあれらで「いかにも海外ウケしそうな日本アニメの作風」感もあり
そういう意味で「尖ってない」というならそうかもしれないが)
(そんな中で、極主夫道のような地上波テレビアニメにもなりそうな作風は逆に目立つよねと)
グローバル化を前提とした作品が、海外の価値観に寄り添って作られるとしても
そこにあるのは制約や規制だけの話じゃなく、「市場の好み」という要素も大きいはずで。
それって国内で言うなら「ジャンプが好き」「マガジンが好き」「ちゃおが好き」「花とゆめが好き」と同等の
「俺は海外向け日本アニメが好きだな」という1バリエーションなのでは?
そこはそこで、既存のコミュニティでは伸ばしにくかった尖った作品を生み出す土壌になりえるのでは?
「そんなの理想論だよ、実施にはマガジンで連載しているだけなのに、海外意識しろって話が来てるよ」
という話なら、その話をしてほしかったよねここで……。
長くなったので後半については後日かきます。
”海外の漫画市場は、日本に比べて“たいしたことない”「数で見る日本作品の優位性」と「ポリコレ意識すべきか?問題」
https://logmi.jp/business/articles/323891
数日前から自分の周りで話題なんだが、私もざっくりみて「これはさすがに」とまず思った。
前提として、これは「漫画家ミライ会議 これからの漫画家の可能性を考える3日間(2020年12月02日〜12月04日)」内で行われた1コーナー。漫画家ミライ会議全体のログも同じログミーにあります。
https://logmi.jp/events/2458
それで思い出したんだけど、私当時この漫画家ミライ会議を見てたなあと。
主催をしている「ナンバーナイン」は、個人出版の本でも大手電子ストアに卸してくれる配信代行企業で
オリジナル同人活動してる人や、マンガで電子書籍出版やってる人中心に認知が進んでいて
来月開催されるコミティアのカタログでも同社はインタビューされているくらいなので
自分も名前は知ってるしTwitterフォローしてるし当時興味ある回をいくつか見てたはず。
この回はクリエイター、特に漫画を作ってる人向けの場で、商業やアマチュア、SNS投稿や商業出版からの立場など
いろんな切り口で漫画家の生存戦略を語るための、主として「作家に対して作家が話をする場」だと認識しております。
話題の赤松さんの回は、↓ページにある目次を見ても市場や経営の話題を担当しているようで。
https://logmi.jp/business/articles/323888
視聴者数が400人と言われており、視聴者数だけならものすごい大規模な回じゃなく、
普段だったら大学のシンポジウムで開催されてたよねきっと(シンポジウムで参加者400人もいたらすごいと思うけど)
どの話も参考になったりならなかったりそれ違うんじゃないかとそれぞれ思いつつ
それでもやっぱりこの記事の「それは違いすぎるだろう」は段違いだなと感じる。
以下本文から引用しつつ感想書いてきます。
>小禄:「漫画と海外市場」です。
>赤松:ポリコレね。要するに(笑)。
ここでまず、海外市場の動向やマーケティングの話じゃなく、
話の1トピックであるだろう「ポリコレ」というワードを出すというのは驚きはするけど
まあそれだけ最前線の作家には身近で圧のある話なのかな~と思う。
ただ、次の段階が何回読んでもよくわからない。
>赤松:ポリティカル・コレクトネス。「政治的な正しさを、漫画とか映画とかに導入しなさい」みたいな外圧が来ているわけですよ。
>日本の漫画の良さって、鬼滅なんかもけっこう残酷な……進撃だって人を食べる……食人……。
>小禄:カニバリズム的な。
>赤松:ヤバいですよね。
>小林:ヤバいです。ヤバいです。
>赤松:こういうものが、世界で驚きを持って迎えられたりする。ここまで日本漫画というものが世界を見据える段階になった時に、
>もっとグローバルスタンダードに合わせなさいよっていう、圧力的なものが現場に来ているわけです。
「日本漫画の尖った描写が、グローバル化によるポリティカル・コネクトネスの影響でなくなるかもしれない」
と読んでいいんですかねここ。
そう読むとして、疑問点が2つ。。
まず、私もポリティカル・コネクトネスという用語は知っているけれど
私の知ってるポリティカル・コレクトネスって残酷描写を制限するものだったかなあ?って
https://kotobank.jp/word/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8D%E3%82%B9-631565
>人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。
>1980年代ごろから米国で、偏見・差別のない表現は政治的に妥当であるという考えのもとに使われるようになった。
>言葉の問題にとどまらず、社会から偏見・差別をなくすことを意味する場合もある。ポリティカリーコレクト。PC。政治的妥当性。
>[補説]「ブラック」を「アフリカンアメリカン(アフリカ系アメリカ人)」、
>「メリークリスマス」を「ハッピーホリデーズ」、「ビジネスマン」を「ビジネスパーソン」と表現するなどの例がある。
>日本語でも、「看護婦・看護士」を「看護師」、「保母・保父」を「保育士」などの表現に改めたことが、これに相当する。
できるだけ客観性のあるメディアの方が良かろうと思って、辞書からとってきました。
おおむね自分の理解もこの通りなんだが、是非とか良し悪しとかこの際置いといて、
ポリティカル・コネクトネスって「偏見や差別」を前提とした概念ですよねと。
で、元の話題に戻るけど、残酷描写って確かに日本でも外国でも程度は違えど
どこでも制約や規制の強い表現領域だと思うんすが、私が理解する限り
別にここに対する制約とは「偏見や差別」とは関係ないのでは? と。
部分的に偏見や差別問題にかすることはあれど、でも偏見や差別要素がなくても
過激な残酷描写は過激な残酷描写であるというだけで、
社会の中で慎重に扱えよって言われがちなものの代表格だと思うんですが。
だからまず「ポリコレの話をしよう」って流れで、「残酷描写が無くなるかもよ」と出てくるのは
話題の検証とか是非とか以前の、違和感がある。
仮にポリティカル・コネクトネスの概念が全くない世界であったとしても、
残酷描写って人々からは慎重に扱われるものじゃないんですかね。
ポリティカル・コネクトネスの定義に触れたので、ついでに元記事後半で微妙だな~っと思ったところも引用する。
>小林:いや、負けってことはないと思いますよ。仮にめちゃくちゃポリコレに反するようなエンタメがあったとしても、
>これ(現在のポリコレの考え)が10年後とか20年後とか30年後とかにもずっとこのままかっていうと、違うじゃないですか。
>もっというと、10年前って今みたいにポリコレ、ポリコレなんてまったくなかったじゃないですか。
>5年前でもなかったですよ。ここ最近ですよ、いわれたの。
さっき引用したように、ポリティカル・コネクトネスとは1980年代にはアメリカで表出していた概念だし、
日本でも、「政治的に正しいおとぎ話」という翻訳本が1995年に発行されていて、
私自身、ポリティカル・コネクトネスという用語自体は、
自分で映画を選んで読んだり情報を集めるようになって自然と知った専門用の類で
たぶん世紀の変わり目の約20年前には見たことある用語だった。
ちなみに、当時からすでによく批判されてたなという覚えがある。
アメリカ映画でよくあるポリティカル・コネクトネス例って、「出演者の人種にバリエーションを持たせる」なんだけど、
「映画の中から偏見や差別を撤廃するために(目的)、複数の肌の出演者を採用する(手段)けど、
話の展開で有色人種すぐ死んで白人ばかりになる(目的の転倒)のダメだろ」みたいな。
当時よく見たタイプの映画を思い返しても最もな批判だと思う。
(こういう批判をよく見たことも影響してか、自分の中ではポリティカル・コネクトネスって
「反差別に消極的賛成」という態度の中で好んで用いるやつ、というイメージが長くある)
話それたが、「10年前って今みたいにポリコレ、ポリコレなんてまったくなかったじゃないですか。」を読んだときは
最近知った人には最近知った言葉なんだなあと思った。
2点目。
ずらずらとポリティカル・コネクトネスの話を描いたが、
この話題はそういう狭義の「ポリコレ」話じゃなくて、おおざっぱに「海外市場からやってくる規制」の話をしたいんですよ、という推測もたつ。
文脈から言ってもこの「海外市場」は北米、アメリカを主にさしてると思っていいよね。あとでアベンジャーズの話も出るし。
(しかし、元の話題であるマーケット面での「海外市場」を考えるなら、伝統的に日本文化の入りづらい北米圏より
親和性の高い東アジア圏あたりを焦点にした方がいいのでは?そっちの方が今はよっぽど強い規制問題の壁があるし)
まあそこでもやっぱり、「アメリカ文化圏で残酷描写が受け入れられないってある??」という疑問がわく。
というのも、日本でも人気の高い「ウォーキングデッド」だとか、
いまや現代アメリカ文化を代表するテレビシリーズになった「ゲームオブスローンズ」とか、
ここ数年で一番人気だろうアメリカドラマ「THE BOYS」だとか、一目見ればわかるけどエログロバイオレンスてんこ盛りで。
アメリカ人、こういうのをスナック感覚で次の更新を待ち遠しく思ってるのであれば、
進撃の巨人でも鬼滅の刃の残酷描写も(実写とアニメの差はあれど)「新鮮に」驚いてるってこたあなくない??
むしろ想定される受け方って「これ(残酷描写)知ってるやつ!」じゃない????
たとえば「ウォーキングデッド」のようなゾンビものは食人描写が前提にあるジャンルなわけで、
なんなら進撃の巨人は向こうでゾンビもの扱いされてるとその昔聞いたことある。
新鮮に驚かれてるとすれば、食人描写云々じゃない箇所なのではないかなあ。
漫画から離れると、国内テレビゲーム分野だと今や欧米産ゲームってかなり人気なんですが、
どうみても向こうの方がグロい作風多いし、なんなら「日本のコンシューマー版だけえぐい演出を削る」は結構ある。
(上記踏まえると、そもそも日本文化がアメリカ文化と比べて制約のない文化か?と考えるのは難しい。
まあ、業界内レーティング機構(CERO)のあるゲーム業界と比べて、出版業界の空気が違うのやもしれんけども)
ここまでつらつら書いてきたけど、
まんが図書館Zを運営する赤松さんも、多くの電子書籍を配信するナンバーナインも
外資プラットフォームであるApple、Google、Amazonとは嫌でも付き合いがあるだろうし
その中には散々煮え湯を飲まされたこともあるだろうというのは想像に難くない。
過去にもまんが図書館Zのアプリがリジェクトされたとご自身がツイートしており
外資に大きな流通の首根っこを握られることの怖さも、それに対抗していくべきという意見も同意しています。
実際、2020年のBLM運動の盛り上がりとともに降ってわいた舞台「ヘアスプレー」の演者を固定した問題をみても
アメリカ文化がアメリカだけのこと考えて制約をつけだしたら
アメリカとは国土や歴史・文化的背景が全く異なるゆえに実質全く流通できなくなるだろうに、
アメリカ発のプラットフォームが根付いている国は壊滅的被害を受けるだろうと、かなりすぐそばまで実感したわけで。
けれど、その生身の危機感に対して
「日本漫画の尖った描写が、グローバル化によるポリティカル・コネクトネスの影響でなくなるかもしれない」
という警鐘を鳴らすには、アメリカ文化・市場への理解のピントがずれている気がして
ここまででまだ全然序盤なんだが「このあとも信用できる話かな…?」とかなり不穏さがすでにある。
根幹の問題意識には同意できても具体が全く見えないこの一連の話に
「そうですよね、同じ意見です」と頷くことはできないし、
過程ではあまりにも他文化への無理解を批判なく表に出しすぎてないかな…。
これらに同意するとは、
「アメリカ文化に残虐な描写はない(から日本の漫画に新鮮に驚くのだ)」
とか、そういうレベルの話になりませんか。
例えばこの場で誰かが「あれ、でもアメリカにもゾンビ映画あるじゃないですか。
それなのに、作家さんのところには『海外意識して残酷描写なくしてください』って話来てるんですか?
それを描くとプラットフォームに取り下げられる可能性があるんでしょうか?」と指摘してたら
この場でもっと的確な問題の掘り下げもできたろうと思う。
ゾンビ映画がアメリカにはあるって、さすがにこの場の大人はみんな知ってる情報でしょうよ。
なんでその話とこの話がつながらなかったんですかね。
「ポリコレ」という用語の印象と、向こうの文化が脳内でつながらなかったんでしょうかね。
情報や認識の齟齬に立ち止まらず、危険視だけを発信する一連の話に同意するということは、
ここに含まれる他国への無理解と反省のなさも飲み込むことにならんですかね。
ひと段落だけで長々書いてしまった。
>(赤松)そういうものは「是か非か」というのを漫画家のほうである程度、意見を統一したいんだけど。
>ただし、グローバル化してあんまり尖ったものがなくなった作品の売上がよかった時に
>「あれ、それはいいのかもしれない」っていうことになっちゃう。
大意から最大限に好意的に解釈すれば、
「海外からの制約・規制をいいものと思い込んで、無批判に取り込みかねないから漫画家内で理解を促そう」
とかそういうことなのかなと。
「是か非か」とは。
例えば狭義のポリティカル・コネクトネスなら「看護師・保育士」とか、英語の「Ms.」といった
用語の存在が含まれるんだが、その使用を禁ずるということはさすがにない、ないのか?
そこの定義がこれまでの流れでぐらぐらなので、まずこの話をほかでもするならまず具体を出さないといけないのでは。
そもそもの話として、ここまでの内容で前提として語られている
「グローバル化してあんまり尖ったものがなくなった作品」て生じるのかなあ。
Netflix限定の日本オリジナルアニメ作品は、まさに現在進行形の「グローバル化した日本の作品」だけど、
攻殻機動隊だ、バキだ、ケンガナシュラだ、今度はスプリガンだと
最近の国内日本アニメの主流からはちょっとみないくらいハード路線の世界観が多いのでは。
(あれらはあれらで「いかにも海外ウケしそうな日本アニメの作風」感もあり
そういう意味で「尖ってない」というならそうかもしれないが)
(そんな中で、極主夫道のような地上波テレビアニメにもなりそうな作風は逆に目立つよねと)
グローバル化を前提とした作品が、海外の価値観に寄り添って作られるとしても
そこにあるのは制約や規制だけの話じゃなく、「市場の好み」という要素も大きいはずで。
それって国内で言うなら「ジャンプが好き」「マガジンが好き」「ちゃおが好き」「花とゆめが好き」と同等の
「俺は海外向け日本アニメが好きだな」という1バリエーションなのでは?
そこはそこで、既存のコミュニティでは伸ばしにくかった尖った作品を生み出す土壌になりえるのでは?
「そんなの理想論だよ、実施にはマガジンで連載しているだけなのに、海外意識しろって話が来てるよ」
という話なら、その話をしてほしかったよねここで……。
長くなったので後半については後日かきます。
by natukusa
natukusa
続きです。
>(見出し)海外の漫画市場は、日本に比べて“たいしたことない”レベル
>(見出し)「“縦スク”でないと漫画が読めない世代が増えてきた」という嘘
ここについては正直あんまり思うところがなく。
「漫画」メディアの日本市場が国際的にも広いのは事実だし、
「よって海外は戦略的に攻めない」のも「小さいからこそ伸び幅がある」のも
各自の戦略の違いなので、「各自がんばれ!」という感想で。
前記事で触れた通り、主催のナンバーナインは現在多くのアマチュア作品を取引する企業のため
国際的な市場開拓を積極的に担う立場ではないだろうし、一方、
日本有数の出版社と雑誌ブランドで長年一線で活躍してきた作家である赤松さんが
「これからあっちを開拓してやるぞ!」と意気込んでブルーオーシャンと評するのも、どちらの観点もわかります。
少しだけミスリードかな~と思ったのは、
「漫画」メディアの海外市場は全部合わせて1000億円というのは
あくまで「漫画」に限った話であり「出版」市場規模ではないこと。
例えば北米の書籍全体の市場規模の資料を引くと、
>以後、書籍に話を絞りますが、2013年の段階で、書籍産業は270億ドルの市場規模を持っています。
>日本円で、約3兆2000億円です。
日本は電子書籍の「後進国」なのか?--米国との差を「刊行点数」から推定 - CNET Japan
一方の日本の出版市場規模は、
>2020年紙+電子出版市場は1兆6168億円で2年連続プラス成長 ~ 出版科学研究所調べ
2020年紙+電子出版市場は1兆6168億円で2年連続プラス成長 ~ 出版科学研究所調べ | HON.jp News Blog
日本語資料の関係で年数に差があるのは申し訳ないんですが、
ざっくり傾向だけ見れば、出版マーケット自体はアメリカだけで日本の約2倍です。
人口に比例した市場規模ですね。
日本の出版における「漫画」メディアとは、全体の約4分の1を占める存在感がありますが、
アメリカでは仮に1000億円と考えても数%しかありません。
と考えると、「そんなニッチ市場に打って出たくないなあ」という判断も
「本を読む人でマンガ読まない人そんなにいるのか!これは勝つる!」という判断も
より解像度が高まるんじゃないでしょうか。
縦スク云々も、記事中で語られている通り「漫画を読む」という素地はある人らに
どんどん売り込むといいですよ。
>赤松:なんだけど、ハリウッド映画がスクリプトドクター、シナリオドクターによって、だいたいの盛り上がりは決まっていると。
>これからポリコレ意識して黒人、白人、いろいろ出してみたいなかたちで。
>『アベンジャーズ』みたいなのが、どれ見ても同じかもしれないですよ。しれないけど、やっぱりヒットすると。
>小禄:おもしろい。
>小林:めちゃくちゃ配慮されてますよ。『アベンジャーズ』。
ここは本当に様々な誤認が含まれていて、どう切り込めばいいのかわからんくらいなんですが、
とりあえず一個一個いきましょう。
まず1行目に出てくる「スクリプトドクター、シナリオドクター」という聞きなれない職業について。
この説明だけ見ると、まるで映画とその作り手に対して
「ここに盛り上がりを作れ!」「これからは人種を出すようキャスティングしろ!」と
ビシビシ手を入れる職種がいて、その通りに作らないといけない産業構造になってるように見えますが
当然そんなことはないです。
日本語ウィキペディアをみてみましょう。
スクリプトドクター - Wikipedia
>スクリプトドクター(英語: script doctor)とは、映画、テレビ番組、演劇等の脚本や台本を書き直したり、
>これらの主題、構成、テンポ、登場人物の性格づけ、台詞など特定の要素の完成度を高める目的で制作会社に雇われる脚本家、劇作家、台本作家である[1]。
>脚本コンサルタント(script consultant)と呼ばれることもある[2]。
>スクリプトドクターの名前は、商業上の事情や芸術上の理由などにより、作品のクレジットタイトルに表示されないことが多い[1][3][4]。
>通常、スクリプトドクターは、既にほぼ制作が決まった脚本等について[5]、
>計画中または製作準備中の段階で、資金調達者、制作チーム、出演者などから具体的な問題が指摘された時に雇われる[6]。
英語版「Script doctor」ではより具体例が並んでいますが、職業概要はほとんど同じです
Script doctor - Wikipedia
よく注目してほしいんですが
「計画中または製作準備中の段階で、資金調達者、制作チーム、出演者などから具体的な問題が指摘された時に雇われる」
とありますね?
つまり、とある映画の企画が進んでいて監督やプロデューサー、脚本家からなる
制作チームが脚本を作っている時に、その脚本の計画中または製作段階で
「この脚本、なんか上手くいかないんだけどなんでだろう?」と行き詰った時に
当事者たちから要請されて参加するのがスクリプトドクターです。
決して、元文章から察せられるような、作り手が一生懸命作った脚本に対して
一方的に「絶対にこういう展開にしろ!」といったり
作り手も気づいていないような差別的表現を一方的にあげつらって削除するような職業ではないんですね。
あくまでこの職業は「ドクター」であり、患者本人の申告があってやってくるし
最悪、患者はそこで処方された薬や手術を断ることもできる。
漫画家にわかりやすい形で説明すれば、漫画編集者が近いかもしれません。
ただし商業においては漫画編集者にこそ掲載決定権があるので、
そこで提案される内容には大なり小なり作家から見て強制力が働く場合もありますが、
スクリプトドクターにはそういうしがらみがありません。雇い主は作家ですからね。
スクリプトドクターは雇い主が求めるように問題点を指摘し、時に改善のためのアイデアをだし
しかしそれを採用するもしないも作家側に決定権があります。
そう聞くと「その人にいてほしい!!」と思う漫画家は少なくないんじゃないでしょうか。
ちなみに、日本の映画業界でもここ20年ほどでスクリプトドクターが存在しており
映画監督でもあり現役スクリプトドクターでもある三宅隆太さんなどは
さまざまなメディアでそのお仕事の実態について発信しています。
「スクリプトドクターの脚本教室・初級篇」「中級篇」という書籍も出ています。
スクリプトドクターの脚本教室・初級篇 - 株式会社新書館
ネットで無料で手軽に概要を聞きたいときは、以下からネットラジオ形式で話を聞けます。
https://www.tbsradio.jp/311853
まとめますと、スクリプトドクターとは作り手の意に添わぬ形で作品に手を入れる職業ではないし
むしろ商業作品のクオリティアップのためには必要なクリエイティブな職業ともいえますが、
この文章ではまるで「ポリコレ(この記事の中では表現の自由と相反するものとして評される)」を
強要する職業であるかのように語るのは、職業や立場に対する偏見です。
ここは強めにはっきりと批判します。
2点目。
「だいたいの盛り上がりは決まっていると。」
「アベンジャーズ』みたいなのが、どれ見ても同じかもしれないですよ。しれないけど、やっぱりヒットすると。」
についてなんですが、
でも日本の漫画ノウハウ本とかでも「起承転結を意識しましょう」とかいわん?
日本の漫画も「一時期全部のラブコメ漫画がラブひなみたいになったときあったよな」とか
「少年少女が戦う学園異能バトル漫画ばっかやな」とかよく言われてると思いますが。
「盛り上がりが決まっている」については、おそらく発言もとになってるのは映画脚本術などでよくみる
「感情曲線」とか「三幕構成」といった話を指しているんでしょうが、
起承転結と同じく「よくある物語の型」として紹介されているでしょう。そりゃよく使われますよ。
日本の漫画家だって、物語を作るときにいまいち面白くない、だが構成を整えたらぐっと良くなったとか
流行りの世界観や設定をもってきて自分なりにアレンジして安心感とオリジナリティを見つけるとかは
それこそ日常的にやってることでは。
近年はネットフリックやAmazonプライムが、視聴者が見ているドラマをどこで離脱するのか
秒単位で観測して、それをもとにドラマを作られていくに違いない、とかまことしやかに囁かれていますが
じゃあ日本の漫画家がその感情曲線を知りたくないかって言ったら知りたい人も多いんでは。
もしかしたらそれが、自分の作品品質をさらに上げてくれるものかもしれないと思ったら
とりあえずは知りたいじゃないですか。使うかどうかはともかく。
構成とか型とかってものは本質的にそういうものなんじゃないですかね。釈迦に説法だと思いますが。
3点目。
「めちゃくちゃ配慮されてますよ。『アベンジャーズ』。」は本当に悩ましい発言で。
というのも、私が知る限りアベンジャーズとは、そこまで配慮ができている作品とはいいがたいので。
お題になってる「ポリコレ」、ポリティカリ・コネクトレスとアメリカ映画の関係で
私が映画を見始めた20年ほど前からず~っとよく言われているものが
「たくさんの人種を出す」であるとは前記事でも話しました。
そこへいくと「アベンジャーズ:エンドゲーム」までの22作品のうち
単独ヒーロー映画でアフリカ系出演者がメインヒーローになったのは1作、
女性出演者がメインヒーローになったのは1作、アジア系出演者にいたっては0作です。
つまり全然(人種や性別は)多様じゃない。
もちろんサブキャラクターの中には多くの有色人種もいますし、スーパーパワーを持った女性もたくさんいます。
ですがあくまでサブキャラクターにとどまっています。
特に最終作のエンドゲームにおいては、展開上人類の半分が虚無になったこともあり
残ってるメンツが露骨に初期メン中心だったので、少ないなりにせっかく増やした有色人種や女性キャラクターが減って、
白人男性中心の初期アベンジャーズ中心に物語が進むようになります。
それは、私が初めてポリティカリコネクトレスに行き会った時に見た
「映画の中から偏見や差別を撤廃するために(目的)、複数の肌の出演者を採用する(手段)けど、
話の展開で有色人種すぐ死んで白人ばかりになる(目的の転倒)のダメだろ」
と、非常に近い構造を持っているんですよね。
私はそういう構図になってしまったことを、それまでの展開をシリーズを続けてきた文脈からいって
特段それを批判の対象とすることはしませんが、一方で多少の登場人物を間引いただけで
こうまではっきりと「特定の肌の色と性別」に割合が大きく偏ってしまうというのは
問題の根の深さ太さを感じずにはいられないと思います。
これ以外にも、特にシリーズ後半でよく指摘された観点として、セクシャルマイノリティの扱いがあります。
シリーズ17作目「マイティ・ソー バトルロイヤル」に登場するヴァルキリーというアフリカ系の女性戦士は
原作コミックではバイセクシャルであることが明かされていましたが、
映画作中でほかの女性戦士に思いを寄せるシーンこそ、ほんの一瞬あっても明言されない演出にとどまり、
これに対して「セクシャルマイノリティがいないことにしたい意図があったのでは?」と批判が上がりました。
元発言に戻ると、「アベンジャーズは(ポリコレに)配慮している」とありましたが
実際にはポリティカリコネクトレスに含まれる、マイノリティ(人種、性別、性的志向)に対して
結構わかりやすく背を向けてるとこがあります。
なので「ポリコレ」なんか支持しないぞ! と考えてる人は
むしろ今のアベンジャーズの路線を応援するといいんじゃないでしょうか。私は一切支持しませんが。
>赤松:もしそういうのがあったとして、科学で漫画の構造を分析して
>「ポリコレも含まれていて、必ず当たる漫画」っていうのが、
>もし海外で受けるようになってものすごく金が儲かった場合、
>我々はどう考えるべきか? っていうのはすごく悩んでいるんですよ
ここには複数の違和感があり、非常に指摘が難しい。
それと同時に、悩みの根っこのようなものには少しの共感があります。
まず「ポリコレも含まれていて、必ず当たる漫画」については
少し違いますが「ポリコレが含まれていて当たった作品」について覚えがあります。
2014年の映画「ベイマックス」です。
この作品は主人公がアジア系アメリカ人で、周囲にもアフリカ系や中国留学生などが様々登場し、
アメリカ映画の中では「ナード」などと呼ばれて軽んじられがちな研究者やオタク性質を、
理系の大学生であり研究者ゆえにヒーローパワーを持ったという設定で前向きに描きました。
当時、アメリカ映画の根底に常に流れる「白人男性のマッチョさが中心に動く物語」に知らず
なれていた自分としては非常に新鮮に映ったんですね。
当時は私と同じように、アメリカ映画をたくさん見るあまり、知らず知らず慣れていた人たちが
ベイマックスを見て「ポリティカリコネクトレスってこういうことか!」と強く感銘を受けたし
作り手の無意識にある「偏見や差別」をもんのすごい手間と資料と予算とかけて制御しきり、
それでいて「面白い作品とはなんだ」と突き詰めて、実際に面白い映画を作った手腕に舌を巻いていました。
↓当時の私のブクマに残ってた記事など。当時の空気がわかるでしょうか。
ベイマックスが最高すぎて恐怖すら覚えた件
ベイマックスが最高すぎて恐怖すら覚えた件 - ヨッピーのブログ
ベイマックスの「政治的正しさ」とクールジャパン
ベイマックスの「政治的正しさ」とクールジャパン - Togetter [トゥギャッター]
『ベイマックス』を見て日本のクリエイティブは完全に死んだと思った
『ベイマックス』を見て日本のクリエイティブは完全に死んだと思った
私からすると「ポリコレが含まれていて当たった作品」は
すでにベイマックスにとどまらずたくさんあるし、散々分析されて、
再現性が計算されつくされて量産し、社会で流通しています。
5年もたってたらこれらの成果は誰しも知らず目にしているでしょう。
逆に言うと、すでに量産されて社会で流通しているからこそ
多くの人の目に留まり、誕生から40年近い歴史があるのに
「ポリコレなんてここ5年のものでしょう」という人まで現れたともいえるかもしれません。
そうやって、どうしようもなく「ある思想」が流通している状況があったとして
思想自体の是非や賛否ではなく、ただただその思想とは別のところに目標がある人からすれば
歯がゆい気持ちになるのは理解します。
そうやって歯噛みする気持ちについては、先ほど紹介した記事に着けた自分のコメントを置いときます。
>2014年の「今時こりゃねえよバカ」大賞は同じくディズニー制作の映画「マレフィセント」だと思う。
>今のディズニーならすべてその方向にいいもの作ってるわけじゃないし、叩かれまくってる日本製も同様じゃないかな。
>ディズニーもピクサーもそも米国映画産業自体がとっくの昔から効率化による集合知産業だけど、
>今も9割駄作で見捨てられ1割の名作をみんながもてはやしてるだけだと思う。
>米国映画産業はずっと昔から超分業制でそれゆえ作品と監督と主演の適性が何より重要なんだと知ってるよ。
この見解はいまも変わってません。
私がこの記事で主張したいのは、「ポリコレ」の是非とかではなく、
「自分たちとは違うやり方」で多くの人の心を揺すった成果にたいして
戸惑ったり警戒するのもわかる一方で、
私見ですけど、結局それらもやり方が違うだけ……違う道を通っているだけで、
「たくさんの人の心を揺さぶる」というゴールを目指し、時に失敗して転んで、
でも誰かが上手い方法を見つけて一歩進む、ということを繰り返すのは
別に日本の漫画もそれ以外も同じなんじゃねえかなあと思ってる次第です。
「屈しない」「負けてない」とよく記事中に出てきますが、
どうかそれは他文化の耳慣れない用語や職業を悪しきものと断定して語るような態度ではなく
同じゴールを目指す競争相手として、誠実な気持ちがあってのものであってほしいと思いますよ。
そんな感じでーす。
>(見出し)海外の漫画市場は、日本に比べて“たいしたことない”レベル
>(見出し)「“縦スク”でないと漫画が読めない世代が増えてきた」という嘘
ここについては正直あんまり思うところがなく。
「漫画」メディアの日本市場が国際的にも広いのは事実だし、
「よって海外は戦略的に攻めない」のも「小さいからこそ伸び幅がある」のも
各自の戦略の違いなので、「各自がんばれ!」という感想で。
前記事で触れた通り、主催のナンバーナインは現在多くのアマチュア作品を取引する企業のため
国際的な市場開拓を積極的に担う立場ではないだろうし、一方、
日本有数の出版社と雑誌ブランドで長年一線で活躍してきた作家である赤松さんが
「これからあっちを開拓してやるぞ!」と意気込んでブルーオーシャンと評するのも、どちらの観点もわかります。
少しだけミスリードかな~と思ったのは、
「漫画」メディアの海外市場は全部合わせて1000億円というのは
あくまで「漫画」に限った話であり「出版」市場規模ではないこと。
例えば北米の書籍全体の市場規模の資料を引くと、
>以後、書籍に話を絞りますが、2013年の段階で、書籍産業は270億ドルの市場規模を持っています。
>日本円で、約3兆2000億円です。
日本は電子書籍の「後進国」なのか?--米国との差を「刊行点数」から推定 - CNET Japan
一方の日本の出版市場規模は、
>2020年紙+電子出版市場は1兆6168億円で2年連続プラス成長 ~ 出版科学研究所調べ
2020年紙+電子出版市場は1兆6168億円で2年連続プラス成長 ~ 出版科学研究所調べ | HON.jp News Blog
日本語資料の関係で年数に差があるのは申し訳ないんですが、
ざっくり傾向だけ見れば、出版マーケット自体はアメリカだけで日本の約2倍です。
人口に比例した市場規模ですね。
日本の出版における「漫画」メディアとは、全体の約4分の1を占める存在感がありますが、
アメリカでは仮に1000億円と考えても数%しかありません。
と考えると、「そんなニッチ市場に打って出たくないなあ」という判断も
「本を読む人でマンガ読まない人そんなにいるのか!これは勝つる!」という判断も
より解像度が高まるんじゃないでしょうか。
縦スク云々も、記事中で語られている通り「漫画を読む」という素地はある人らに
どんどん売り込むといいですよ。
>赤松:なんだけど、ハリウッド映画がスクリプトドクター、シナリオドクターによって、だいたいの盛り上がりは決まっていると。
>これからポリコレ意識して黒人、白人、いろいろ出してみたいなかたちで。
>『アベンジャーズ』みたいなのが、どれ見ても同じかもしれないですよ。しれないけど、やっぱりヒットすると。
>小禄:おもしろい。
>小林:めちゃくちゃ配慮されてますよ。『アベンジャーズ』。
ここは本当に様々な誤認が含まれていて、どう切り込めばいいのかわからんくらいなんですが、
とりあえず一個一個いきましょう。
まず1行目に出てくる「スクリプトドクター、シナリオドクター」という聞きなれない職業について。
この説明だけ見ると、まるで映画とその作り手に対して
「ここに盛り上がりを作れ!」「これからは人種を出すようキャスティングしろ!」と
ビシビシ手を入れる職種がいて、その通りに作らないといけない産業構造になってるように見えますが
当然そんなことはないです。
日本語ウィキペディアをみてみましょう。
スクリプトドクター - Wikipedia
>スクリプトドクター(英語: script doctor)とは、映画、テレビ番組、演劇等の脚本や台本を書き直したり、
>これらの主題、構成、テンポ、登場人物の性格づけ、台詞など特定の要素の完成度を高める目的で制作会社に雇われる脚本家、劇作家、台本作家である[1]。
>脚本コンサルタント(script consultant)と呼ばれることもある[2]。
>スクリプトドクターの名前は、商業上の事情や芸術上の理由などにより、作品のクレジットタイトルに表示されないことが多い[1][3][4]。
>通常、スクリプトドクターは、既にほぼ制作が決まった脚本等について[5]、
>計画中または製作準備中の段階で、資金調達者、制作チーム、出演者などから具体的な問題が指摘された時に雇われる[6]。
英語版「Script doctor」ではより具体例が並んでいますが、職業概要はほとんど同じです
Script doctor - Wikipedia
よく注目してほしいんですが
「計画中または製作準備中の段階で、資金調達者、制作チーム、出演者などから具体的な問題が指摘された時に雇われる」
とありますね?
つまり、とある映画の企画が進んでいて監督やプロデューサー、脚本家からなる
制作チームが脚本を作っている時に、その脚本の計画中または製作段階で
「この脚本、なんか上手くいかないんだけどなんでだろう?」と行き詰った時に
当事者たちから要請されて参加するのがスクリプトドクターです。
決して、元文章から察せられるような、作り手が一生懸命作った脚本に対して
一方的に「絶対にこういう展開にしろ!」といったり
作り手も気づいていないような差別的表現を一方的にあげつらって削除するような職業ではないんですね。
あくまでこの職業は「ドクター」であり、患者本人の申告があってやってくるし
最悪、患者はそこで処方された薬や手術を断ることもできる。
漫画家にわかりやすい形で説明すれば、漫画編集者が近いかもしれません。
ただし商業においては漫画編集者にこそ掲載決定権があるので、
そこで提案される内容には大なり小なり作家から見て強制力が働く場合もありますが、
スクリプトドクターにはそういうしがらみがありません。雇い主は作家ですからね。
スクリプトドクターは雇い主が求めるように問題点を指摘し、時に改善のためのアイデアをだし
しかしそれを採用するもしないも作家側に決定権があります。
そう聞くと「その人にいてほしい!!」と思う漫画家は少なくないんじゃないでしょうか。
ちなみに、日本の映画業界でもここ20年ほどでスクリプトドクターが存在しており
映画監督でもあり現役スクリプトドクターでもある三宅隆太さんなどは
さまざまなメディアでそのお仕事の実態について発信しています。
「スクリプトドクターの脚本教室・初級篇」「中級篇」という書籍も出ています。
スクリプトドクターの脚本教室・初級篇 - 株式会社新書館
ネットで無料で手軽に概要を聞きたいときは、以下からネットラジオ形式で話を聞けます。
https://www.tbsradio.jp/311853
まとめますと、スクリプトドクターとは作り手の意に添わぬ形で作品に手を入れる職業ではないし
むしろ商業作品のクオリティアップのためには必要なクリエイティブな職業ともいえますが、
この文章ではまるで「ポリコレ(この記事の中では表現の自由と相反するものとして評される)」を
強要する職業であるかのように語るのは、職業や立場に対する偏見です。
ここは強めにはっきりと批判します。
2点目。
「だいたいの盛り上がりは決まっていると。」
「アベンジャーズ』みたいなのが、どれ見ても同じかもしれないですよ。しれないけど、やっぱりヒットすると。」
についてなんですが、
でも日本の漫画ノウハウ本とかでも「起承転結を意識しましょう」とかいわん?
日本の漫画も「一時期全部のラブコメ漫画がラブひなみたいになったときあったよな」とか
「少年少女が戦う学園異能バトル漫画ばっかやな」とかよく言われてると思いますが。
「盛り上がりが決まっている」については、おそらく発言もとになってるのは映画脚本術などでよくみる
「感情曲線」とか「三幕構成」といった話を指しているんでしょうが、
起承転結と同じく「よくある物語の型」として紹介されているでしょう。そりゃよく使われますよ。
日本の漫画家だって、物語を作るときにいまいち面白くない、だが構成を整えたらぐっと良くなったとか
流行りの世界観や設定をもってきて自分なりにアレンジして安心感とオリジナリティを見つけるとかは
それこそ日常的にやってることでは。
近年はネットフリックやAmazonプライムが、視聴者が見ているドラマをどこで離脱するのか
秒単位で観測して、それをもとにドラマを作られていくに違いない、とかまことしやかに囁かれていますが
じゃあ日本の漫画家がその感情曲線を知りたくないかって言ったら知りたい人も多いんでは。
もしかしたらそれが、自分の作品品質をさらに上げてくれるものかもしれないと思ったら
とりあえずは知りたいじゃないですか。使うかどうかはともかく。
構成とか型とかってものは本質的にそういうものなんじゃないですかね。釈迦に説法だと思いますが。
3点目。
「めちゃくちゃ配慮されてますよ。『アベンジャーズ』。」は本当に悩ましい発言で。
というのも、私が知る限りアベンジャーズとは、そこまで配慮ができている作品とはいいがたいので。
お題になってる「ポリコレ」、ポリティカリ・コネクトレスとアメリカ映画の関係で
私が映画を見始めた20年ほど前からず~っとよく言われているものが
「たくさんの人種を出す」であるとは前記事でも話しました。
そこへいくと「アベンジャーズ:エンドゲーム」までの22作品のうち
単独ヒーロー映画でアフリカ系出演者がメインヒーローになったのは1作、
女性出演者がメインヒーローになったのは1作、アジア系出演者にいたっては0作です。
つまり全然(人種や性別は)多様じゃない。
もちろんサブキャラクターの中には多くの有色人種もいますし、スーパーパワーを持った女性もたくさんいます。
ですがあくまでサブキャラクターにとどまっています。
特に最終作のエンドゲームにおいては、展開上人類の半分が虚無になったこともあり
残ってるメンツが露骨に初期メン中心だったので、少ないなりにせっかく増やした有色人種や女性キャラクターが減って、
白人男性中心の初期アベンジャーズ中心に物語が進むようになります。
それは、私が初めてポリティカリコネクトレスに行き会った時に見た
「映画の中から偏見や差別を撤廃するために(目的)、複数の肌の出演者を採用する(手段)けど、
話の展開で有色人種すぐ死んで白人ばかりになる(目的の転倒)のダメだろ」
と、非常に近い構造を持っているんですよね。
私はそういう構図になってしまったことを、それまでの展開をシリーズを続けてきた文脈からいって
特段それを批判の対象とすることはしませんが、一方で多少の登場人物を間引いただけで
こうまではっきりと「特定の肌の色と性別」に割合が大きく偏ってしまうというのは
問題の根の深さ太さを感じずにはいられないと思います。
これ以外にも、特にシリーズ後半でよく指摘された観点として、セクシャルマイノリティの扱いがあります。
シリーズ17作目「マイティ・ソー バトルロイヤル」に登場するヴァルキリーというアフリカ系の女性戦士は
原作コミックではバイセクシャルであることが明かされていましたが、
映画作中でほかの女性戦士に思いを寄せるシーンこそ、ほんの一瞬あっても明言されない演出にとどまり、
これに対して「セクシャルマイノリティがいないことにしたい意図があったのでは?」と批判が上がりました。
元発言に戻ると、「アベンジャーズは(ポリコレに)配慮している」とありましたが
実際にはポリティカリコネクトレスに含まれる、マイノリティ(人種、性別、性的志向)に対して
結構わかりやすく背を向けてるとこがあります。
なので「ポリコレ」なんか支持しないぞ! と考えてる人は
むしろ今のアベンジャーズの路線を応援するといいんじゃないでしょうか。私は一切支持しませんが。
>赤松:もしそういうのがあったとして、科学で漫画の構造を分析して
>「ポリコレも含まれていて、必ず当たる漫画」っていうのが、
>もし海外で受けるようになってものすごく金が儲かった場合、
>我々はどう考えるべきか? っていうのはすごく悩んでいるんですよ
ここには複数の違和感があり、非常に指摘が難しい。
それと同時に、悩みの根っこのようなものには少しの共感があります。
まず「ポリコレも含まれていて、必ず当たる漫画」については
少し違いますが「ポリコレが含まれていて当たった作品」について覚えがあります。
2014年の映画「ベイマックス」です。
この作品は主人公がアジア系アメリカ人で、周囲にもアフリカ系や中国留学生などが様々登場し、
アメリカ映画の中では「ナード」などと呼ばれて軽んじられがちな研究者やオタク性質を、
理系の大学生であり研究者ゆえにヒーローパワーを持ったという設定で前向きに描きました。
当時、アメリカ映画の根底に常に流れる「白人男性のマッチョさが中心に動く物語」に知らず
なれていた自分としては非常に新鮮に映ったんですね。
当時は私と同じように、アメリカ映画をたくさん見るあまり、知らず知らず慣れていた人たちが
ベイマックスを見て「ポリティカリコネクトレスってこういうことか!」と強く感銘を受けたし
作り手の無意識にある「偏見や差別」をもんのすごい手間と資料と予算とかけて制御しきり、
それでいて「面白い作品とはなんだ」と突き詰めて、実際に面白い映画を作った手腕に舌を巻いていました。
↓当時の私のブクマに残ってた記事など。当時の空気がわかるでしょうか。
ベイマックスが最高すぎて恐怖すら覚えた件
ベイマックスが最高すぎて恐怖すら覚えた件 - ヨッピーのブログ
ベイマックスの「政治的正しさ」とクールジャパン
ベイマックスの「政治的正しさ」とクールジャパン - Togetter [トゥギャッター]
『ベイマックス』を見て日本のクリエイティブは完全に死んだと思った
『ベイマックス』を見て日本のクリエイティブは完全に死んだと思った
私からすると「ポリコレが含まれていて当たった作品」は
すでにベイマックスにとどまらずたくさんあるし、散々分析されて、
再現性が計算されつくされて量産し、社会で流通しています。
5年もたってたらこれらの成果は誰しも知らず目にしているでしょう。
逆に言うと、すでに量産されて社会で流通しているからこそ
多くの人の目に留まり、誕生から40年近い歴史があるのに
「ポリコレなんてここ5年のものでしょう」という人まで現れたともいえるかもしれません。
そうやって、どうしようもなく「ある思想」が流通している状況があったとして
思想自体の是非や賛否ではなく、ただただその思想とは別のところに目標がある人からすれば
歯がゆい気持ちになるのは理解します。
そうやって歯噛みする気持ちについては、先ほど紹介した記事に着けた自分のコメントを置いときます。
>2014年の「今時こりゃねえよバカ」大賞は同じくディズニー制作の映画「マレフィセント」だと思う。
>今のディズニーならすべてその方向にいいもの作ってるわけじゃないし、叩かれまくってる日本製も同様じゃないかな。
>ディズニーもピクサーもそも米国映画産業自体がとっくの昔から効率化による集合知産業だけど、
>今も9割駄作で見捨てられ1割の名作をみんながもてはやしてるだけだと思う。
>米国映画産業はずっと昔から超分業制でそれゆえ作品と監督と主演の適性が何より重要なんだと知ってるよ。
この見解はいまも変わってません。
私がこの記事で主張したいのは、「ポリコレ」の是非とかではなく、
「自分たちとは違うやり方」で多くの人の心を揺すった成果にたいして
戸惑ったり警戒するのもわかる一方で、
私見ですけど、結局それらもやり方が違うだけ……違う道を通っているだけで、
「たくさんの人の心を揺さぶる」というゴールを目指し、時に失敗して転んで、
でも誰かが上手い方法を見つけて一歩進む、ということを繰り返すのは
別に日本の漫画もそれ以外も同じなんじゃねえかなあと思ってる次第です。
「屈しない」「負けてない」とよく記事中に出てきますが、
どうかそれは他文化の耳慣れない用語や職業を悪しきものと断定して語るような態度ではなく
同じゴールを目指す競争相手として、誠実な気持ちがあってのものであってほしいと思いますよ。
そんな感じでーす。
by natukusa
natukusa
ちょいと書きそびれてたこともある&話が逸れるので記事切りました。
>赤松:もしそういうのがあったとして、科学で漫画の構造を分析して
>「ポリコレも含まれていて、必ず当たる漫画」っていうのが、
>もし海外で受けるようになってものすごく金が儲かった場合、
>我々はどう考えるべきか? っていうのはすごく悩んでいるんですよ
意図したものかどうかわかりませんけど、この一文は
現在のアメリカ映画の現状を考える上においても非常に鋭い問題で。
私が思うに、アメリカ映画の特に大手メーカーとは
5・6年ほど前に「我々はどう考えるべきか?」に直面し
そして「儲かるから取り入れるべき」に舵を切ったのだと思います。
「アナと雪の女王」はそれまで長く落ち目だったディズニーのアニメ映画をよみがえらせ、
「ベイマックス」「ズートピア」では、はっきりと現代の人種問題に裏に表に取り組んで
いずれも大ヒットさせたわけで。
ここ10年のアメリカ国内の映画産業は毎年上位がだいたいアメコミ実写映画という状況でしたが
その中でも、女性単独ヒーロー映画「ワンダーウーマン」は公開年のアメリカ興行成績上位に食い込み、
アフリカ系単独ヒーロー映画「ブラックパンサー」は同年公開の「アベンジャーズ:インフィニティウォー」を抑えて
これまたアメリカ興行成績年間1位に躍り出ました。
要するに、はっきりと儲かったんですよねこの路線。
そして「このビッグウェーブに乗るしかない!」と調子こいたディズニーが
アジア系プッシュのつもりで「ムーラン」実写版を作ったら、
ウィグル自治区の問題で国際的にぼこぼこにされたわけで。
ムーラン飛びぬけてヤバい問題に触れてましたが、
これ以外にも「取り組んでるけど逆にダメだろ」に足つっこんでるような映画は
近年まあまああったと思います。今起きていることとは、かつて克服したと思っていた、
「映画の中から偏見や差別を撤廃するために(目的)、複数の肌の出演者を採用する(手段)けど、
話の展開で有色人種すぐ死んで白人ばかりになる(目的の転倒)のダメだろ」
これがまた形を変えて再来してんじゃないかと、ここ数年感じています。
どうしてそこまで儲かるのかと考えれば、
これまでマイナーだとされていたキャラクター性を、現実が覆しつつあるからでしょう。
アメリカでは人口こそ増加傾向ですが、ヨーロッパ系の人口は高齢化&人口比で減っており、
代わりに若いアフリカ系とメキシコ系人種の人口がどんどん増えている。
アメリカ映画におけるキャラクターの人種の変化とは、
単に倫理的な問題以外にも、直球に「客層の変化」を映したものでもあるでしょう。
ちなみに、アメコミ原作映画「ローガン」ではこの人種構造の変化を描いていて、
幼き少女が人をザクザクなます切りにする面白い映画ですよ。
(これも結構な残酷描写のある映画ですね)
売れるから取り入れられたものが、売れなくなったら取り入れられなくなるのも当然の理屈で。
そんなものに倫理的な問題をゆだねてええんかね、ということは自分も考えます。
たぶん発言の意図はそういう話じゃないとは思うんだけど、
まあでも、ポリティカル・コネクトレスっていうとたいそう立派でよい子ちゃんな印象かもしらんが
近年の盛り上がりからいえば「時代のニーズの変化をうまくつかんだやつ」という側面も大いにあるよねと。
軽薄と感じる側面もあるし、しかしそれこそ商業展開する上で逃れがたいファクターじゃないの、じゃあどうする?
そういう話を「漫画と海外市場とポリコレ」というお題で聞きたかったよなーと思ったりしますね。
>赤松:もしそういうのがあったとして、科学で漫画の構造を分析して
>「ポリコレも含まれていて、必ず当たる漫画」っていうのが、
>もし海外で受けるようになってものすごく金が儲かった場合、
>我々はどう考えるべきか? っていうのはすごく悩んでいるんですよ
意図したものかどうかわかりませんけど、この一文は
現在のアメリカ映画の現状を考える上においても非常に鋭い問題で。
私が思うに、アメリカ映画の特に大手メーカーとは
5・6年ほど前に「我々はどう考えるべきか?」に直面し
そして「儲かるから取り入れるべき」に舵を切ったのだと思います。
「アナと雪の女王」はそれまで長く落ち目だったディズニーのアニメ映画をよみがえらせ、
「ベイマックス」「ズートピア」では、はっきりと現代の人種問題に裏に表に取り組んで
いずれも大ヒットさせたわけで。
ここ10年のアメリカ国内の映画産業は毎年上位がだいたいアメコミ実写映画という状況でしたが
その中でも、女性単独ヒーロー映画「ワンダーウーマン」は公開年のアメリカ興行成績上位に食い込み、
アフリカ系単独ヒーロー映画「ブラックパンサー」は同年公開の「アベンジャーズ:インフィニティウォー」を抑えて
これまたアメリカ興行成績年間1位に躍り出ました。
要するに、はっきりと儲かったんですよねこの路線。
そして「このビッグウェーブに乗るしかない!」と調子こいたディズニーが
アジア系プッシュのつもりで「ムーラン」実写版を作ったら、
ウィグル自治区の問題で国際的にぼこぼこにされたわけで。
ムーラン飛びぬけてヤバい問題に触れてましたが、
これ以外にも「取り組んでるけど逆にダメだろ」に足つっこんでるような映画は
近年まあまああったと思います。今起きていることとは、かつて克服したと思っていた、
「映画の中から偏見や差別を撤廃するために(目的)、複数の肌の出演者を採用する(手段)けど、
話の展開で有色人種すぐ死んで白人ばかりになる(目的の転倒)のダメだろ」
これがまた形を変えて再来してんじゃないかと、ここ数年感じています。
どうしてそこまで儲かるのかと考えれば、
これまでマイナーだとされていたキャラクター性を、現実が覆しつつあるからでしょう。
アメリカでは人口こそ増加傾向ですが、ヨーロッパ系の人口は高齢化&人口比で減っており、
代わりに若いアフリカ系とメキシコ系人種の人口がどんどん増えている。
アメリカ映画におけるキャラクターの人種の変化とは、
単に倫理的な問題以外にも、直球に「客層の変化」を映したものでもあるでしょう。
ちなみに、アメコミ原作映画「ローガン」ではこの人種構造の変化を描いていて、
幼き少女が人をザクザクなます切りにする面白い映画ですよ。
(これも結構な残酷描写のある映画ですね)
売れるから取り入れられたものが、売れなくなったら取り入れられなくなるのも当然の理屈で。
そんなものに倫理的な問題をゆだねてええんかね、ということは自分も考えます。
たぶん発言の意図はそういう話じゃないとは思うんだけど、
まあでも、ポリティカル・コネクトレスっていうとたいそう立派でよい子ちゃんな印象かもしらんが
近年の盛り上がりからいえば「時代のニーズの変化をうまくつかんだやつ」という側面も大いにあるよねと。
軽薄と感じる側面もあるし、しかしそれこそ商業展開する上で逃れがたいファクターじゃないの、じゃあどうする?
そういう話を「漫画と海外市場とポリコレ」というお題で聞きたかったよなーと思ったりしますね。
by natukusa