Recent Entries

みんなの最新エントリー

natukusa

natukusanatukusa

たわわ広告について今更かくぞ。
 
たわわ原作についてはTwitter掲載しかしてないころから認知してた。
オタクアカウントしてるので、自然とRTで視界には入ってたし、
広告にもなった編み込みちゃん(当時はそんな呼び名だったような?)が
頻繁に出るようになったくらいで個体認識した。
 
コミケで再録同人誌が出たときの「あのサークルのまわしがすごい!」と
バズッてるのも見てたブクマもしたはず。
いつだったか直参加した際には「一回体験してみよ」とのこのこ買いに行った。
 
1枚絵時代は「ハプニング展開重視のラブコメシリーズ」くらいの感想で
巨乳エロ要素よりも、がっつりセックスしてる展開を暗喩してる回が好きだったな~。
 
たわわってアニメになった時もかなりざわついてた覚えがあるんですけど、皆覚えてないかしら。
このときも「1枚絵だったらみれたが、前後の文脈が付いたらキツイ」って感想でまあまあ荒れた。
 
ぶっちゃけ、今ほどの騒ぎではなかった気がするが、引っかかる人が引っかかってる点や
あの作品自体を受け入れられない人の反応は今とそんな変わんない気がする。
自分は1枚絵時代よりもより男女二人のキャラが立ってると感じられたのと、
メインの男性キャラがCV間島淳司だったので、より「ああいう二人のラブコメ」感覚で見てた。
 
いよいよ漫画連載が始まったころには興味なくなっちゃって見てなかったなー。
まあ典型的な「ネット経由で見てたので、ネット以外のメディアになると視界から外れる」だと思う。
Twitterもアニメもネットで見れたからね…。
 
で、そうして数年たつうちに日経新聞の広告掲載されて。
自分は確か掲載された朝に、コミックナタリーが取り上げていたのを見て知って、
日経新聞もオンライン版は昔購読してたが今はやめちゃって、
新聞紙面は直接読んだことない。今回も見てない。
 
そんな自分でも最初にみたとき「痴漢被害」というワードは不思議と浮かんだな。
 
これTwitter時代かず~っともってた構造の問題だし、
あの作品があの作品である限りは逃れられない要素だけど
自分の中では「まあでもそういう作品なので」と処理して
あんまり表立って警鐘ならす感じはずっとなかったな。
 
でも「4月初旬の日経新聞に載った」という要素が重なって、
「あーこれ、朝から読んだ痴漢被害経験ある人きついだろな」
とは、正直浮かんだんだよね。
 
「月曜日になったらたわわが更新される!Twitterアカウント見てから会社行こ!」じゃなく、
主にビジネスマンがビジネス知識や情報を得るために読む媒体として手に取って
そのモードの時に、これから電車乗るぞって人があの広告をみたら、無防備なところに
自分や自分以外の痴漢被害の知識を引き出される人は、「いる」だろうなとは感じた。
 
その後やっぱり話題になってた。
 
「だから回収・撤回・謝罪・取り下げも仕方なし」とも思わないし
「あれみて性暴力被害を想起するやつなんかいないだろ」とも思わない。
全然どっちも両立する広告では? というのは今も当時も変わんない。
 
こっからは広告マーケティングの話なんすが、
話題になるにつれて思い出したのは「ラブタイツ企画」のアツギね。
他でもちょいちょい名前出す人いたので、これも繋げて想起する人は多い事例なのかも。
 
ただ、たわわ広告とラブタイツ企画で決定的に違うと感じたのは
ラブタイツ企画は「この広告で誰に何を伝えたかったのかさっぱりわからん」だが、
たわわ広告は「この広告から誰に何を伝えたいのかよくわかる」なんだよね。
 
ラブタイツ企画に対しては、前に長々書いたのでそっち読んで。
17on - はてな?って感じでハイクをかけるミニブログ
 
ぶっちゃけラブタイツのあの絵たちだけみて
「この商品はこういうものでして、今回はこういう層に買ってほしくて広告しました!」
って説明できる人いる? 私は当時かなり頑張って情報かき集めて推測したよ。
 
社会倫理とは別に「広告」というツールは、世に何らかの情報を伝えるためのツールで
逆に言うと「伝えたいことが伝わらない広告」とは品質が低いわけですよ。
ラブタイツ企画は、1枚1枚の絵の品質は高くても広告としての品質は低かった、というのが自分の評価で。
 
そこへいくと、たわわ広告はもうばっちりですよね。
新聞という物理メディアで、「日本経済」を関する新聞を読むと言ったら
やっぱそこそこ年食った社会人ばかりか、もしくはそういう社会人になりたい若者ですやん。
たぶん性別で行ったら男性が中心でしょう。女性も皆無とは思わないが、過半数は絶対いないね。
(あとで調べたら実際に購読者の男女比4:1らしい)
 
そういった購読層に対して「癒し」として若くて乳のデカい女の表層を見せる。
まさに「月曜朝の社畜諸兄にたわわをお届けします」ですよ。
 
でも露骨になりすぎないよう、ポージングや添えるコピーが考え抜かれてて
肌露出もほとんどないし、巨乳も腕で見えづらくしてるし
一瞬遠目に見るだけなら「漫画絵の女の子だな」くらいしか思わんけど、寄ってみると実は…?
この辺はTwitter連載時代の技が生かされてるな~って思う。
 
話題になった後にも、出版社も作家も確か特に動きがなかったはずだが
ぶっちゃけ「まあ反発はあるでしょうね」と思って動いてる節はあるよね。
それがどのくらいの想定規模だったかはわからんけどさ。
 
原作コピー自体が「誰に何を」と伝える言葉として秀逸だと思っていたけど、
日経新聞の購読者をたわわファン(予備軍)と重なってるよね! これ行けるのでは!?
と発想した人の興奮が手に取るようにわかって、マーケティングモードで想像するとわくわくすんだよね。
いやほんとに。
 
だからたわわ広告には「上手い広告だな~」って感心する気持ちも、真剣にある。
 
アツギと比べちゃうのは、あれも「若い女性の表層イメージを使って商品を広告する」という
企画概要はたわわ広告と同じでも、出来上がった広告が上手くない品質の低い広告だったからで、
「たわわ広告と比べてラブタイツはよお。もっとうまくやれただろアツギよお」
って全然関係ない部外者ながらに何かくさくさしちゃう。
 
全然関係ない部外者っていったけど、なんだろうな、でもさ
たわわ広告が上手くできて、ラブタイツ企画が上手くできなかった要因の一つに
「たわわ原作は主に男性向け市場ではぐくまれた」
「アツギのタイツ商品は主に女性向け市場ではぐくまれた」
「両市場における、若い女性の表層イメージを使って商品を広告することのノウハウ差」
みたいなものも、ちょっと考えちゃうんだよね。
 
もちろん、広告の品質なんて、クライアントとメディア企業のでかさや
企画発注をした個々人の能力が一番デカいですよ、はい。
 
でも、女性としてオタクとして生きてて、
国内でも女性オタク向けの市場って男性のそれと比べて全然小さいし
何が成功して失敗なのかなんて、積み重ねも薄いよね~って
ケースはこれ以外にもあるんでいろいろ考えちゃうわけですよ。
 
あの新聞広告の出し方に「痴漢被害」を想起するのも確かで、
広告としてよくできてんなあと品質感心するのも確かで、
そういう思いや思惑も含めて「あの広告作った人に話聞きたい」という気持ちはめっちゃある。
でもこんだけ悪い意味で話題になった今なら、その方がたぶんセンシティブだよね。
つるし上げる気はほんとにないんだよ、でも「なんでこれ思いついたんですか」の話はしたいし聞きたい。
 
別に、作り手以外でもほんとは「あの広告どう思った?」と
平和的に話したいし聞きたいけど、なんかそんな空気じゃねえよな~。
natukusa

natukusanatukusa

マイメロの「名言」グッズに引っ掛けて、いろいろ湧いてきたのでここに書く。
元アニメ作品は当時話題になってたのみて、名前は知ってるなーくらいの自分なので
何を言っても「その程度のお前が口出すな。ファンが悲しんでいるんだぞ」と言われれば、それはそうすね。
 
でもそれいっちゃうと、去年のアツギのラブタイツ企画が炎上したときに、
まず最初に反応してたのは、普段アツギを買って使ってる顧客ないし潜在顧客じゃなかったか?
ということを思い出しちゃって。
 
当時の感想は過去ログにも書いてるが、そのあたりは書いてなかった気がするので1年ぶりに書く。
17on - はてな?って感じでハイクをかけるミニブログ
 
「顧客以外は口出すな」というなら、あの時は男性や、男性であっても
タイツには特に興味なさそうな(なんならそれまでアツギの名前さえ知らんかった)人が
擁護に回ることは多かった気がするんだが。
 
顧客じゃない人が、商品(の広報)に対する顧客の反応に
口を出してた話じゃなかったかと思うんだよな、ラブタイツ企画。
 
「タイツ」という商品ではなく「美少女もの様式」という切り取り方で言えば、
まあそうすねその人らも顧客の一部だし、だから激しく反応したんだろうけども。
 
で、そういう構図になった結果、
美少女もの様式が広報や商品展開に絡んでいたら、
普段商品の顧客じゃない人の目さえ気にしないといけない時代なのか~
という感慨がなかったわけじゃない。
 
たぶんこれ、普段はオタク自身もマンガやアニメの描写に
何か言われたときに感じるものと同じじゃないんすかね。
 
特にアツギの場合、そうやって擁護してた人らが
「いい広告じゃん。俺たちもこの商品は今後も買うわ」という
顧客発掘はできない形式だったじゃんね…。
美少女ものに興味があり、タイツも使う人を発掘するニッチ企画だったじゃん…。
 
だから擁護についても「美少女ものが好きな女性を否定するのか!」ってワードが頻出したんだろな。
まさにそれに該当する自分でも「まあでもこの広報は失敗だし、ディレクションのミス」と思ったし、
だから感想記事にも書いたが、そこに対して当時擁護してた側から意見を尊重された覚えない。
 
そういう態度を見せられたら、
「顧客としての意見が顧客じゃない人に上書きされてる状況だ」
という気持ちは、二重三重に強化される。
この辺、今だに考えも気持ちも整理がついてない。
 
それはそれとして。
 
自分としては商品として・広報としてのジャッジって
「そのままじゃ売りに出しても人気は出ないかも」とか
「仮に商品としては人気が出ても、世に出すことでブランドや企業の評判は悪くなるかも」で、
 
そこに対して、企業や作り手を
「でもそれ以上の利益があるから」「意義のあることだから」と天秤にかけて
「だからそのまま出します」「最初と違うけど、こういう見せ方なら受け入れられるかもしれないから変えます」
「いろいろ考えてやめます」というグラデーションの中で、考えて決めたんなら意図を汲みたいし
どういう選択するにしろ基本的に尊重するよ。
 
……という前提が、昔より無くなってんのかなと思う。
「これどうなんだ?」と表明することが「だから世に出すな」として
受け取られやすい世間になってるっつうか。
 
短文メディアが流行ってるせいかもしれない。
ブログならこうやってねちねち書き連ねることはできるからね。
natukusa

natukusanatukusa

わはは、font-daさんとタイミングと動機が重なったので笑っちゃった。
さっきはてブをプライベートモードにして、しばらく見ないようにしよーってしてきた。
 
ここ見てる人は、font-daさんのブログよりずっと少ない(いるのか?)ので
全然比べ物にならないんだけど、今この瞬間のはてな(はてブ)に
しんどいなと思ってる人は他にもいたんだなあと。
 
はてな全体の空気とかコミュニティとか昔からずっと距離取ってたと思うし、
自分が興味あって信頼のおけると思えた人をずっと追っかけていたので、
たくさんの人が去ってもここまで使っていたが、
でも、そうやって自分で選んだ人たちの意見にも
徐々に意識のずれを感じるようになって、こりゃもうあかんなと。
 
それが他者の変化なのか、自分の変化なのかはわからん。どっちもあると思う。
 
自分はたまにそういうモードになって閉じてることはよくあったので、
そのうちまた普通に開放して使ってるかもしれんし、ないかもしれん。
natukusa

natukusanatukusa

ルックバックとか刃牙とかの話題を見ていてなんとなーく感じたこと。
 
作中の過激で一方的な暴力描写を批判するにしても、大昔のはてなでは痴漢モチーフのエロ漫画に対する議論があったけど
その頃は暗に「この作品によって現実の誰かが加害に至るかもしれない」意識からの批判が多かったように思うんだが
いま目に付くのは「過去に実害を受けた人のフラッシュバック懸念や、被害者への配慮」意識からの批判が増えてるよーな? 気がする?
ルックバックの犯人像への指摘にしても、「偏見を助長するかも」という形の「被害」に向けた懸念だよなと。
 
もちろん、痴漢エロ漫画は限られた市場(法律的に・趣向的に)の中で、誰かが強い意志で選んだうえで消費されているもの、
先に上げた2作は広くメジャーな場で消費され、既に多くの人にリーチしているコンテンツであるという前提の違いも大きいと思う。
 
「加害に至るかも」という声はいまでもあるけど、以前ほど前には出てないというか、
批判側の声としてもマイナー派閥になっている気もする。
 
その変化が何を示しているのかはよくわからん。
それだけ被害を受けた人やその二次加害への世間的認知が進んでいて、過激な描写を見てふとよぎる人が増えたのかもしれない。
だとするなら、それ自体はいいことだと思う。無かったことにされてた「酷いこと」があらわになって、研究もケアも社会的に進むのだろう。
 
一方で、曲がりなりにも手遊びで漫画とか描いてる自分としては、考えることが次から次へと出てくるなあという気持ちもある。
思考を突き詰めれば、ようやく世に認知され始めた概念も、これから見出されるかもしれない概念の全部に配慮しろと言われたって物理的に無理だしさ。
被害があるなら加害が必ずあって、じゃあここでいう加害って何さ?と考えると作る手が重くなるし、
そういう意味では今も昔も論点は変わってないともいえる。
 
じゃあそ被害ケアと作品演出はトレードオフの概念かというと、そうは思いたくない。
実際問題、性暴力被害の話を聞いていると「受けた被害と同じことされているフィクションを読み書きする」という話は珍しくない。
詳しいことは専門家じゃないのでわからんが、そうすることで何かの整理がつくこともあるかもしれんし、ないかもしれん。
被害者ケアという立場であるからこそ、守らねばならない表現領域てのもたくさんあるってことだと思う。
 
(ここからエロ漫画の話をします。これも配慮だな)
 
ところで痴漢漫画の話なんすけど、当時
「ステレオタイプに描かれるような、派手で露出の高い女性が被害を受けてるわけじゃない。
 地味で反撃の出来なさそうな女性を特に狙っている卑劣な犯罪だ」とははてなでよく見かけたし
その後の世間的な痴漢被害への認識も、そういう方向に変わっていったなと思う。
(派手で露出の高い女性は被害を受けていいわけじゃないですよ。これも当時のはてなでも言われてたなあ)
んで、痴漢漫画の方もそういう方向に変わんなかった? いまや地味清楚をアンアン言わせる分野になってない?
はてなで見かけた話題や議題が、コンテンツに顕著に反映されていった事例じゃないかと、今回の件でちょっと思い出したりもした。
natukusa

natukusanatukusa

はてブの空気は数年おきに変わっていたけど、今は一段と息がしづらい空気があるなあって思う。
自分がお気に入り全部外しちゃったから、ホッテントリくらいしか見るものがなくて、そこの傾向にいちいちしんどくなってるのも大きいんだが。
かといって以前お気に入りしていた人らを覗きに行くと、「いまこれをずっと追いかけてはいられないな」と感じる。まあどこもかしこもそうなんだろう。
新しく「おっ」と思ったコメントのアカウント遡って読んでも、何か根本的なずれを感じることが多くてお気に入りには至らない。
自分がそういうモードなのか、社会がそういうモードなのか。どっちもか。
natukusa

natukusanatukusa

返信先natukusa
ちょいと書きそびれてたこともある&話が逸れるので記事切りました。

>赤松:もしそういうのがあったとして、科学で漫画の構造を分析して
>「ポリコレも含まれていて、必ず当たる漫画」っていうのが、
>もし海外で受けるようになってものすごく金が儲かった場合、
>我々はどう考えるべきか? っていうのはすごく悩んでいるんですよ

意図したものかどうかわかりませんけど、この一文は
現在のアメリカ映画の現状を考える上においても非常に鋭い問題で。

私が思うに、アメリカ映画の特に大手メーカーとは
5・6年ほど前に「我々はどう考えるべきか?」に直面し
そして「儲かるから取り入れるべき」に舵を切ったのだと思います。

「アナと雪の女王」はそれまで長く落ち目だったディズニーのアニメ映画をよみがえらせ、
「ベイマックス」「ズートピア」では、はっきりと現代の人種問題に裏に表に取り組んで
いずれも大ヒットさせたわけで。

ここ10年のアメリカ国内の映画産業は毎年上位がだいたいアメコミ実写映画という状況でしたが
その中でも、女性単独ヒーロー映画「ワンダーウーマン」は公開年のアメリカ興行成績上位に食い込み、
アフリカ系単独ヒーロー映画「ブラックパンサー」は同年公開の「アベンジャーズ:インフィニティウォー」を抑えて
これまたアメリカ興行成績年間1位に躍り出ました。

要するに、はっきりと儲かったんですよねこの路線。

そして「このビッグウェーブに乗るしかない!」と調子こいたディズニーが
アジア系プッシュのつもりで「ムーラン」実写版を作ったら、
ウィグル自治区の問題で国際的にぼこぼこにされたわけで。

ムーラン飛びぬけてヤバい問題に触れてましたが、
これ以外にも「取り組んでるけど逆にダメだろ」に足つっこんでるような映画は
近年まあまああったと思います。今起きていることとは、かつて克服したと思っていた、

「映画の中から偏見や差別を撤廃するために(目的)、複数の肌の出演者を採用する(手段)けど、
話の展開で有色人種すぐ死んで白人ばかりになる(目的の転倒)のダメだろ」

これがまた形を変えて再来してんじゃないかと、ここ数年感じています。

どうしてそこまで儲かるのかと考えれば、
これまでマイナーだとされていたキャラクター性を、現実が覆しつつあるからでしょう。

アメリカでは人口こそ増加傾向ですが、ヨーロッパ系の人口は高齢化&人口比で減っており、
代わりに若いアフリカ系とメキシコ系人種の人口がどんどん増えている。
アメリカ映画におけるキャラクターの人種の変化とは、
単に倫理的な問題以外にも、直球に「客層の変化」を映したものでもあるでしょう。

ちなみに、アメコミ原作映画「ローガン」ではこの人種構造の変化を描いていて、
幼き少女が人をザクザクなます切りにする面白い映画ですよ。
(これも結構な残酷描写のある映画ですね)

売れるから取り入れられたものが、売れなくなったら取り入れられなくなるのも当然の理屈で。
そんなものに倫理的な問題をゆだねてええんかね、ということは自分も考えます。

たぶん発言の意図はそういう話じゃないとは思うんだけど、
まあでも、ポリティカル・コネクトレスっていうとたいそう立派でよい子ちゃんな印象かもしらんが
近年の盛り上がりからいえば「時代のニーズの変化をうまくつかんだやつ」という側面も大いにあるよねと。

軽薄と感じる側面もあるし、しかしそれこそ商業展開する上で逃れがたいファクターじゃないの、じゃあどうする?

そういう話を「漫画と海外市場とポリコレ」というお題で聞きたかったよなーと思ったりしますね。
natukusa

natukusanatukusa

返信先natukusa
続きです。

>(見出し)海外の漫画市場は、日本に比べて“たいしたことない”レベル
>(見出し)「“縦スク”でないと漫画が読めない世代が増えてきた」という嘘

ここについては正直あんまり思うところがなく。

「漫画」メディアの日本市場が国際的にも広いのは事実だし、
「よって海外は戦略的に攻めない」のも「小さいからこそ伸び幅がある」のも
各自の戦略の違いなので、「各自がんばれ!」という感想で。

前記事で触れた通り、主催のナンバーナインは現在多くのアマチュア作品を取引する企業のため
国際的な市場開拓を積極的に担う立場ではないだろうし、一方、
日本有数の出版社と雑誌ブランドで長年一線で活躍してきた作家である赤松さんが
「これからあっちを開拓してやるぞ!」と意気込んでブルーオーシャンと評するのも、どちらの観点もわかります。

少しだけミスリードかな~と思ったのは、
「漫画」メディアの海外市場は全部合わせて1000億円というのは
あくまで「漫画」に限った話であり「出版」市場規模ではないこと。

例えば北米の書籍全体の市場規模の資料を引くと、

>以後、書籍に話を絞りますが、2013年の段階で、書籍産業は270億ドルの市場規模を持っています。
>日本円で、約3兆2000億円です。
日本は電子書籍の「後進国」なのか?--米国との差を「刊行点数」から推定 - CNET Japan

一方の日本の出版市場規模は、

>2020年紙+電子出版市場は1兆6168億円で2年連続プラス成長 ~ 出版科学研究所調べ
2020年紙+電子出版市場は1兆6168億円で2年連続プラス成長 ~ 出版科学研究所調べ | HON.jp News Blog

日本語資料の関係で年数に差があるのは申し訳ないんですが、
ざっくり傾向だけ見れば、出版マーケット自体はアメリカだけで日本の約2倍です。
人口に比例した市場規模ですね。

日本の出版における「漫画」メディアとは、全体の約4分の1を占める存在感がありますが、
アメリカでは仮に1000億円と考えても数%しかありません。

と考えると、「そんなニッチ市場に打って出たくないなあ」という判断も
「本を読む人でマンガ読まない人そんなにいるのか!これは勝つる!」という判断も
より解像度が高まるんじゃないでしょうか。

縦スク云々も、記事中で語られている通り「漫画を読む」という素地はある人らに
どんどん売り込むといいですよ。



>赤松:なんだけど、ハリウッド映画がスクリプトドクター、シナリオドクターによって、だいたいの盛り上がりは決まっていると。
>これからポリコレ意識して黒人、白人、いろいろ出してみたいなかたちで。
>『アベンジャーズ』みたいなのが、どれ見ても同じかもしれないですよ。しれないけど、やっぱりヒットすると。

>小禄:おもしろい。

>小林:めちゃくちゃ配慮されてますよ。『アベンジャーズ』。

ここは本当に様々な誤認が含まれていて、どう切り込めばいいのかわからんくらいなんですが、
とりあえず一個一個いきましょう。

まず1行目に出てくる「スクリプトドクター、シナリオドクター」という聞きなれない職業について。

この説明だけ見ると、まるで映画とその作り手に対して
「ここに盛り上がりを作れ!」「これからは人種を出すようキャスティングしろ!」と
ビシビシ手を入れる職種がいて、その通りに作らないといけない産業構造になってるように見えますが
当然そんなことはないです。

日本語ウィキペディアをみてみましょう。
スクリプトドクター - Wikipedia

>スクリプトドクター(英語: script doctor)とは、映画、テレビ番組、演劇等の脚本や台本を書き直したり、
>これらの主題、構成、テンポ、登場人物の性格づけ、台詞など特定の要素の完成度を高める目的で制作会社に雇われる脚本家、劇作家、台本作家である[1]。
>脚本コンサルタント(script consultant)と呼ばれることもある[2]。

>スクリプトドクターの名前は、商業上の事情や芸術上の理由などにより、作品のクレジットタイトルに表示されないことが多い[1][3][4]。
>通常、スクリプトドクターは、既にほぼ制作が決まった脚本等について[5]、
>計画中または製作準備中の段階で、資金調達者、制作チーム、出演者などから具体的な問題が指摘された時に雇われる[6]。

英語版「Script doctor」ではより具体例が並んでいますが、職業概要はほとんど同じです
Script doctor - Wikipedia

よく注目してほしいんですが
「計画中または製作準備中の段階で、資金調達者、制作チーム、出演者などから具体的な問題が指摘された時に雇われる」
とありますね?

つまり、とある映画の企画が進んでいて監督やプロデューサー、脚本家からなる
制作チームが脚本を作っている時に、その脚本の計画中または製作段階で
「この脚本、なんか上手くいかないんだけどなんでだろう?」と行き詰った時に
当事者たちから要請されて参加するのがスクリプトドクターです。

決して、元文章から察せられるような、作り手が一生懸命作った脚本に対して
一方的に「絶対にこういう展開にしろ!」といったり
作り手も気づいていないような差別的表現を一方的にあげつらって削除するような職業ではないんですね。

あくまでこの職業は「ドクター」であり、患者本人の申告があってやってくるし
最悪、患者はそこで処方された薬や手術を断ることもできる。

漫画家にわかりやすい形で説明すれば、漫画編集者が近いかもしれません。
ただし商業においては漫画編集者にこそ掲載決定権があるので、
そこで提案される内容には大なり小なり作家から見て強制力が働く場合もありますが、
スクリプトドクターにはそういうしがらみがありません。雇い主は作家ですからね。

スクリプトドクターは雇い主が求めるように問題点を指摘し、時に改善のためのアイデアをだし
しかしそれを採用するもしないも作家側に決定権があります。
そう聞くと「その人にいてほしい!!」と思う漫画家は少なくないんじゃないでしょうか。

ちなみに、日本の映画業界でもここ20年ほどでスクリプトドクターが存在しており
映画監督でもあり現役スクリプトドクターでもある三宅隆太さんなどは
さまざまなメディアでそのお仕事の実態について発信しています。

「スクリプトドクターの脚本教室・初級篇」「中級篇」という書籍も出ています。
スクリプトドクターの脚本教室・初級篇 - 株式会社新書館

ネットで無料で手軽に概要を聞きたいときは、以下からネットラジオ形式で話を聞けます。
https://www.tbsradio.jp/311853


まとめますと、スクリプトドクターとは作り手の意に添わぬ形で作品に手を入れる職業ではないし
むしろ商業作品のクオリティアップのためには必要なクリエイティブな職業ともいえますが、
この文章ではまるで「ポリコレ(この記事の中では表現の自由と相反するものとして評される)」を
強要する職業であるかのように語るのは、職業や立場に対する偏見です。

ここは強めにはっきりと批判します。


2点目。
「だいたいの盛り上がりは決まっていると。」
「アベンジャーズ』みたいなのが、どれ見ても同じかもしれないですよ。しれないけど、やっぱりヒットすると。」
についてなんですが、

でも日本の漫画ノウハウ本とかでも「起承転結を意識しましょう」とかいわん?
日本の漫画も「一時期全部のラブコメ漫画がラブひなみたいになったときあったよな」とか
「少年少女が戦う学園異能バトル漫画ばっかやな」とかよく言われてると思いますが。

「盛り上がりが決まっている」については、おそらく発言もとになってるのは映画脚本術などでよくみる
「感情曲線」とか「三幕構成」といった話を指しているんでしょうが、
起承転結と同じく「よくある物語の型」として紹介されているでしょう。そりゃよく使われますよ。

日本の漫画家だって、物語を作るときにいまいち面白くない、だが構成を整えたらぐっと良くなったとか
流行りの世界観や設定をもってきて自分なりにアレンジして安心感とオリジナリティを見つけるとかは
それこそ日常的にやってることでは。

近年はネットフリックやAmazonプライムが、視聴者が見ているドラマをどこで離脱するのか
秒単位で観測して、それをもとにドラマを作られていくに違いない、とかまことしやかに囁かれていますが
じゃあ日本の漫画家がその感情曲線を知りたくないかって言ったら知りたい人も多いんでは。

もしかしたらそれが、自分の作品品質をさらに上げてくれるものかもしれないと思ったら
とりあえずは知りたいじゃないですか。使うかどうかはともかく。
構成とか型とかってものは本質的にそういうものなんじゃないですかね。釈迦に説法だと思いますが。



3点目。
「めちゃくちゃ配慮されてますよ。『アベンジャーズ』。」は本当に悩ましい発言で。
というのも、私が知る限りアベンジャーズとは、そこまで配慮ができている作品とはいいがたいので。

お題になってる「ポリコレ」、ポリティカリ・コネクトレスとアメリカ映画の関係で
私が映画を見始めた20年ほど前からず~っとよく言われているものが
「たくさんの人種を出す」であるとは前記事でも話しました。

そこへいくと「アベンジャーズ:エンドゲーム」までの22作品のうち
単独ヒーロー映画でアフリカ系出演者がメインヒーローになったのは1作、
女性出演者がメインヒーローになったのは1作、アジア系出演者にいたっては0作です。
つまり全然(人種や性別は)多様じゃない。

もちろんサブキャラクターの中には多くの有色人種もいますし、スーパーパワーを持った女性もたくさんいます。
ですがあくまでサブキャラクターにとどまっています。

特に最終作のエンドゲームにおいては、展開上人類の半分が虚無になったこともあり
残ってるメンツが露骨に初期メン中心だったので、少ないなりにせっかく増やした有色人種や女性キャラクターが減って、
白人男性中心の初期アベンジャーズ中心に物語が進むようになります。

それは、私が初めてポリティカリコネクトレスに行き会った時に見た
「映画の中から偏見や差別を撤廃するために(目的)、複数の肌の出演者を採用する(手段)けど、
話の展開で有色人種すぐ死んで白人ばかりになる(目的の転倒)のダメだろ」
と、非常に近い構造を持っているんですよね。

私はそういう構図になってしまったことを、それまでの展開をシリーズを続けてきた文脈からいって
特段それを批判の対象とすることはしませんが、一方で多少の登場人物を間引いただけで
こうまではっきりと「特定の肌の色と性別」に割合が大きく偏ってしまうというのは
問題の根の深さ太さを感じずにはいられないと思います。

これ以外にも、特にシリーズ後半でよく指摘された観点として、セクシャルマイノリティの扱いがあります。

シリーズ17作目「マイティ・ソー バトルロイヤル」に登場するヴァルキリーというアフリカ系の女性戦士は
原作コミックではバイセクシャルであることが明かされていましたが、
映画作中でほかの女性戦士に思いを寄せるシーンこそ、ほんの一瞬あっても明言されない演出にとどまり、
これに対して「セクシャルマイノリティがいないことにしたい意図があったのでは?」と批判が上がりました。

元発言に戻ると、「アベンジャーズは(ポリコレに)配慮している」とありましたが
実際にはポリティカリコネクトレスに含まれる、マイノリティ(人種、性別、性的志向)に対して
結構わかりやすく背を向けてるとこがあります。

なので「ポリコレ」なんか支持しないぞ! と考えてる人は
むしろ今のアベンジャーズの路線を応援するといいんじゃないでしょうか。私は一切支持しませんが。



>赤松:もしそういうのがあったとして、科学で漫画の構造を分析して
>「ポリコレも含まれていて、必ず当たる漫画」っていうのが、
>もし海外で受けるようになってものすごく金が儲かった場合、
>我々はどう考えるべきか? っていうのはすごく悩んでいるんですよ

ここには複数の違和感があり、非常に指摘が難しい。
それと同時に、悩みの根っこのようなものには少しの共感があります。

まず「ポリコレも含まれていて、必ず当たる漫画」については
少し違いますが「ポリコレが含まれていて当たった作品」について覚えがあります。

2014年の映画「ベイマックス」です。

この作品は主人公がアジア系アメリカ人で、周囲にもアフリカ系や中国留学生などが様々登場し、
アメリカ映画の中では「ナード」などと呼ばれて軽んじられがちな研究者やオタク性質を、
理系の大学生であり研究者ゆえにヒーローパワーを持ったという設定で前向きに描きました。

当時、アメリカ映画の根底に常に流れる「白人男性のマッチョさが中心に動く物語」に知らず
なれていた自分としては非常に新鮮に映ったんですね。

当時は私と同じように、アメリカ映画をたくさん見るあまり、知らず知らず慣れていた人たちが
ベイマックスを見て「ポリティカリコネクトレスってこういうことか!」と強く感銘を受けたし
作り手の無意識にある「偏見や差別」をもんのすごい手間と資料と予算とかけて制御しきり、
それでいて「面白い作品とはなんだ」と突き詰めて、実際に面白い映画を作った手腕に舌を巻いていました。

↓当時の私のブクマに残ってた記事など。当時の空気がわかるでしょうか。

ベイマックスが最高すぎて恐怖すら覚えた件
ベイマックスが最高すぎて恐怖すら覚えた件 - ヨッピーのブログ
ベイマックスの「政治的正しさ」とクールジャパン
ベイマックスの「政治的正しさ」とクールジャパン - Togetter
『ベイマックス』を見て日本のクリエイティブは完全に死んだと思った
『ベイマックス』を見て日本のクリエイティブは完全に死んだと思った


私からすると「ポリコレが含まれていて当たった作品」は
すでにベイマックスにとどまらずたくさんあるし、散々分析されて、
再現性が計算されつくされて量産し、社会で流通しています。
5年もたってたらこれらの成果は誰しも知らず目にしているでしょう。

逆に言うと、すでに量産されて社会で流通しているからこそ
多くの人の目に留まり、誕生から40年近い歴史があるのに
「ポリコレなんてここ5年のものでしょう」という人まで現れたともいえるかもしれません。

そうやって、どうしようもなく「ある思想」が流通している状況があったとして
思想自体の是非や賛否ではなく、ただただその思想とは別のところに目標がある人からすれば
歯がゆい気持ちになるのは理解します。

そうやって歯噛みする気持ちについては、先ほど紹介した記事に着けた自分のコメントを置いときます。


>2014年の「今時こりゃねえよバカ」大賞は同じくディズニー制作の映画「マレフィセント」だと思う。
>今のディズニーならすべてその方向にいいもの作ってるわけじゃないし、叩かれまくってる日本製も同様じゃないかな。

>ディズニーもピクサーもそも米国映画産業自体がとっくの昔から効率化による集合知産業だけど、
>今も9割駄作で見捨てられ1割の名作をみんながもてはやしてるだけだと思う。

>米国映画産業はずっと昔から超分業制でそれゆえ作品と監督と主演の適性が何より重要なんだと知ってるよ。

この見解はいまも変わってません。

私がこの記事で主張したいのは、「ポリコレ」の是非とかではなく、
「自分たちとは違うやり方」で多くの人の心を揺すった成果にたいして
戸惑ったり警戒するのもわかる一方で、

私見ですけど、結局それらもやり方が違うだけ……違う道を通っているだけで、
「たくさんの人の心を揺さぶる」というゴールを目指し、時に失敗して転んで、
でも誰かが上手い方法を見つけて一歩進む、ということを繰り返すのは
別に日本の漫画もそれ以外も同じなんじゃねえかなあと思ってる次第です。

「屈しない」「負けてない」とよく記事中に出てきますが、
どうかそれは他文化の耳慣れない用語や職業を悪しきものと断定して語るような態度ではなく
同じゴールを目指す競争相手として、誠実な気持ちがあってのものであってほしいと思いますよ。


そんな感じでーす。
natukusa

natukusanatukusa

ブコメであれこれ書いてたけど、やっぱ階を重ねるの書きづらいなと思ってこっちに来ました。
 
”海外の漫画市場は、日本に比べて“たいしたことない”「数で見る日本作品の優位性」と「ポリコレ意識すべきか?問題」
https://logmi.jp/business/articles/323891
 
数日前から自分の周りで話題なんだが、私もざっくりみて「これはさすがに」とまず思った。

前提として、これは「漫画家ミライ会議 これからの漫画家の可能性を考える3日間(2020年12月02日〜12月04日)」内で行われた1コーナー。漫画家ミライ会議全体のログも同じログミーにあります。
https://logmi.jp/events/2458
 
それで思い出したんだけど、私当時この漫画家ミライ会議を見てたなあと。
主催をしている「ナンバーナイン」は、個人出版の本でも大手電子ストアに卸してくれる配信代行企業で
オリジナル同人活動してる人や、マンガで電子書籍出版やってる人中心に認知が進んでいて
来月開催されるコミティアのカタログでも同社はインタビューされているくらいなので
自分も名前は知ってるしTwitterフォローしてるし当時興味ある回をいくつか見てたはず。
 
この回はクリエイター、特に漫画を作ってる人向けの場で、商業やアマチュア、SNS投稿や商業出版からの立場など
いろんな切り口で漫画家の生存戦略を語るための、主として「作家に対して作家が話をする場」だと認識しております。
 
話題の赤松さんの回は、↓ページにある目次を見ても市場や経営の話題を担当しているようで。
https://logmi.jp/business/articles/323888
視聴者数が400人と言われており、視聴者数だけならものすごい大規模な回じゃなく、
普段だったら大学のシンポジウムで開催されてたよねきっと(シンポジウムで参加者400人もいたらすごいと思うけど)
 
どの話も参考になったりならなかったりそれ違うんじゃないかとそれぞれ思いつつ
それでもやっぱりこの記事の「それは違いすぎるだろう」は段違いだなと感じる。
以下本文から引用しつつ感想書いてきます。
 
>小禄:「漫画と海外市場」です。
>赤松:ポリコレね。要するに(笑)。
 
ここでまず、海外市場の動向やマーケティングの話じゃなく、
話の1トピックであるだろう「ポリコレ」というワードを出すというのは驚きはするけど
まあそれだけ最前線の作家には身近で圧のある話なのかな~と思う。
 
ただ、次の段階が何回読んでもよくわからない。
 
>赤松:ポリティカル・コレクトネス。「政治的な正しさを、漫画とか映画とかに導入しなさい」みたいな外圧が来ているわけですよ。
>日本の漫画の良さって、鬼滅なんかもけっこう残酷な……進撃だって人を食べる……食人……。

>小禄:カニバリズム的な。

>赤松:ヤバいですよね。

>小林:ヤバいです。ヤバいです。

>赤松:こういうものが、世界で驚きを持って迎えられたりする。ここまで日本漫画というものが世界を見据える段階になった時に、
>もっとグローバルスタンダードに合わせなさいよっていう、圧力的なものが現場に来ているわけです。
 
「日本漫画の尖った描写が、グローバル化によるポリティカル・コネクトネスの影響でなくなるかもしれない」
と読んでいいんですかねここ。
 
そう読むとして、疑問点が2つ。。
 
まず、私もポリティカル・コネクトネスという用語は知っているけれど
私の知ってるポリティカル・コレクトネスって残酷描写を制限するものだったかなあ?って

ポリティカルコレクトネスとは? 意味や使い方 - コトバンク
>人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。
>1980年代ごろから米国で、偏見・差別のない表現は政治的に妥当であるという考えのもとに使われるようになった。
>言葉の問題にとどまらず、社会から偏見・差別をなくすことを意味する場合もある。ポリティカリーコレクト。PC。政治的妥当性。
>[補説]「ブラック」を「アフリカンアメリカン(アフリカ系アメリカ人)」、
>「メリークリスマス」を「ハッピーホリデーズ」、「ビジネスマン」を「ビジネスパーソン」と表現するなどの例がある。
>日本語でも、「看護婦・看護士」を「看護師」、「保母・保父」を「保育士」などの表現に改めたことが、これに相当する。
 
できるだけ客観性のあるメディアの方が良かろうと思って、辞書からとってきました。
おおむね自分の理解もこの通りなんだが、是非とか良し悪しとかこの際置いといて、
ポリティカル・コネクトネスって「偏見や差別」を前提とした概念ですよねと。
 
で、元の話題に戻るけど、残酷描写って確かに日本でも外国でも程度は違えど
どこでも制約や規制の強い表現領域だと思うんすが、私が理解する限り
別にここに対する制約とは「偏見や差別」とは関係ないのでは? と。
 
部分的に偏見や差別問題にかすることはあれど、でも偏見や差別要素がなくても
過激な残酷描写は過激な残酷描写であるというだけで、
社会の中で慎重に扱えよって言われがちなものの代表格だと思うんですが。
 
だからまず「ポリコレの話をしよう」って流れで、「残酷描写が無くなるかもよ」と出てくるのは
話題の検証とか是非とか以前の、違和感がある。
仮にポリティカル・コネクトネスの概念が全くない世界であったとしても、
残酷描写って人々からは慎重に扱われるものじゃないんですかね。
 
 
 
ポリティカル・コネクトネスの定義に触れたので、ついでに元記事後半で微妙だな~っと思ったところも引用する。
 
>小林:いや、負けってことはないと思いますよ。仮にめちゃくちゃポリコレに反するようなエンタメがあったとしても、
>これ(現在のポリコレの考え)が10年後とか20年後とか30年後とかにもずっとこのままかっていうと、違うじゃないですか。
>もっというと、10年前って今みたいにポリコレ、ポリコレなんてまったくなかったじゃないですか。
>5年前でもなかったですよ。ここ最近ですよ、いわれたの。
 
さっき引用したように、ポリティカル・コネクトネスとは1980年代にはアメリカで表出していた概念だし、
日本でも、「政治的に正しいおとぎ話」という翻訳本が1995年に発行されていて、
私自身、ポリティカル・コネクトネスという用語自体は、
自分で映画を選んで読んだり情報を集めるようになって自然と知った専門用の類で
たぶん世紀の変わり目の約20年前には見たことある用語だった。
 
ちなみに、当時からすでによく批判されてたなという覚えがある。
 
アメリカ映画でよくあるポリティカル・コネクトネス例って、「出演者の人種にバリエーションを持たせる」なんだけど、
「映画の中から偏見や差別を撤廃するために(目的)、複数の肌の出演者を採用する(手段)けど、
話の展開で有色人種すぐ死んで白人ばかりになる(目的の転倒)のダメだろ」みたいな。
当時よく見たタイプの映画を思い返しても最もな批判だと思う。
(こういう批判をよく見たことも影響してか、自分の中ではポリティカル・コネクトネスって
「反差別に消極的賛成」という態度の中で好んで用いるやつ、というイメージが長くある)
 
話それたが、「10年前って今みたいにポリコレ、ポリコレなんてまったくなかったじゃないですか。」を読んだときは
最近知った人には最近知った言葉なんだなあと思った。
 
 
 
2点目。
ずらずらとポリティカル・コネクトネスの話を描いたが、
この話題はそういう狭義の「ポリコレ」話じゃなくて、おおざっぱに「海外市場からやってくる規制」の話をしたいんですよ、という推測もたつ。
文脈から言ってもこの「海外市場」は北米、アメリカを主にさしてると思っていいよね。あとでアベンジャーズの話も出るし。
 
(しかし、元の話題であるマーケット面での「海外市場」を考えるなら、伝統的に日本文化の入りづらい北米圏より
 親和性の高い東アジア圏あたりを焦点にした方がいいのでは?そっちの方が今はよっぽど強い規制問題の壁があるし)
 
まあそこでもやっぱり、「アメリカ文化圏で残酷描写が受け入れられないってある??」という疑問がわく。
 
というのも、日本でも人気の高い「ウォーキングデッド」だとか、
いまや現代アメリカ文化を代表するテレビシリーズになった「ゲームオブスローンズ」とか、
ここ数年で一番人気だろうアメリカドラマ「THE BOYS」だとか、一目見ればわかるけどエログロバイオレンスてんこ盛りで。
 
アメリカ人、こういうのをスナック感覚で次の更新を待ち遠しく思ってるのであれば、
進撃の巨人でも鬼滅の刃の残酷描写も(実写とアニメの差はあれど)「新鮮に」驚いてるってこたあなくない??
むしろ想定される受け方って「これ(残酷描写)知ってるやつ!」じゃない????
 
たとえば「ウォーキングデッド」のようなゾンビものは食人描写が前提にあるジャンルなわけで、
なんなら進撃の巨人は向こうでゾンビもの扱いされてるとその昔聞いたことある。
新鮮に驚かれてるとすれば、食人描写云々じゃない箇所なのではないかなあ。
 
漫画から離れると、国内テレビゲーム分野だと今や欧米産ゲームってかなり人気なんですが、
どうみても向こうの方がグロい作風多いし、なんなら「日本のコンシューマー版だけえぐい演出を削る」は結構ある。
(上記踏まえると、そもそも日本文化がアメリカ文化と比べて制約のない文化か?と考えるのは難しい。
まあ、業界内レーティング機構(CERO)のあるゲーム業界と比べて、出版業界の空気が違うのやもしれんけども)
 
 
 
ここまでつらつら書いてきたけど、
まんが図書館Zを運営する赤松さんも、多くの電子書籍を配信するナンバーナインも
外資プラットフォームであるApple、Google、Amazonとは嫌でも付き合いがあるだろうし
その中には散々煮え湯を飲まされたこともあるだろうというのは想像に難くない。
 
過去にもまんが図書館Zのアプリがリジェクトされたとご自身がツイートしており
外資に大きな流通の首根っこを握られることの怖さも、それに対抗していくべきという意見も同意しています。
 
実際、2020年のBLM運動の盛り上がりとともに降ってわいた舞台「ヘアスプレー」の演者を固定した問題をみても
アメリカ文化がアメリカだけのこと考えて制約をつけだしたら
アメリカとは国土や歴史・文化的背景が全く異なるゆえに実質全く流通できなくなるだろうに、
アメリカ発のプラットフォームが根付いている国は壊滅的被害を受けるだろうと、かなりすぐそばまで実感したわけで。
 
けれど、その生身の危機感に対して
「日本漫画の尖った描写が、グローバル化によるポリティカル・コネクトネスの影響でなくなるかもしれない」
という警鐘を鳴らすには、アメリカ文化・市場への理解のピントがずれている気がして
ここまででまだ全然序盤なんだが「このあとも信用できる話かな…?」とかなり不穏さがすでにある。
 
根幹の問題意識には同意できても具体が全く見えないこの一連の話に
「そうですよね、同じ意見です」と頷くことはできないし、
過程ではあまりにも他文化への無理解を批判なく表に出しすぎてないかな…。
 
これらに同意するとは、
「アメリカ文化に残虐な描写はない(から日本の漫画に新鮮に驚くのだ)」
とか、そういうレベルの話になりませんか。
 
例えばこの場で誰かが「あれ、でもアメリカにもゾンビ映画あるじゃないですか。
それなのに、作家さんのところには『海外意識して残酷描写なくしてください』って話来てるんですか?
それを描くとプラットフォームに取り下げられる可能性があるんでしょうか?」と指摘してたら
この場でもっと的確な問題の掘り下げもできたろうと思う。
 
ゾンビ映画がアメリカにはあるって、さすがにこの場の大人はみんな知ってる情報でしょうよ。
なんでその話とこの話がつながらなかったんですかね。
「ポリコレ」という用語の印象と、向こうの文化が脳内でつながらなかったんでしょうかね。
 
情報や認識の齟齬に立ち止まらず、危険視だけを発信する一連の話に同意するということは、
ここに含まれる他国への無理解と反省のなさも飲み込むことにならんですかね。
 
 
ひと段落だけで長々書いてしまった。
 
 
>(赤松)そういうものは「是か非か」というのを漫画家のほうである程度、意見を統一したいんだけど。
>ただし、グローバル化してあんまり尖ったものがなくなった作品の売上がよかった時に
>「あれ、それはいいのかもしれない」っていうことになっちゃう。
 
大意から最大限に好意的に解釈すれば、
「海外からの制約・規制をいいものと思い込んで、無批判に取り込みかねないから漫画家内で理解を促そう」
とかそういうことなのかなと。
 
「是か非か」とは。
例えば狭義のポリティカル・コネクトネスなら「看護師・保育士」とか、英語の「Ms.」といった
用語の存在が含まれるんだが、その使用を禁ずるということはさすがにない、ないのか?
そこの定義がこれまでの流れでぐらぐらなので、まずこの話をほかでもするならまず具体を出さないといけないのでは。
 
 
 
そもそもの話として、ここまでの内容で前提として語られている
「グローバル化してあんまり尖ったものがなくなった作品」て生じるのかなあ。
 
Netflix限定の日本オリジナルアニメ作品は、まさに現在進行形の「グローバル化した日本の作品」だけど、
攻殻機動隊だ、バキだ、ケンガナシュラだ、今度はスプリガンだと
最近の国内日本アニメの主流からはちょっとみないくらいハード路線の世界観が多いのでは。
 
(あれらはあれらで「いかにも海外ウケしそうな日本アニメの作風」感もあり
そういう意味で「尖ってない」というならそうかもしれないが)
(そんな中で、極主夫道のような地上波テレビアニメにもなりそうな作風は逆に目立つよねと)
 
グローバル化を前提とした作品が、海外の価値観に寄り添って作られるとしても
そこにあるのは制約や規制だけの話じゃなく、「市場の好み」という要素も大きいはずで。

それって国内で言うなら「ジャンプが好き」「マガジンが好き」「ちゃおが好き」「花とゆめが好き」と同等の
「俺は海外向け日本アニメが好きだな」という1バリエーションなのでは?
そこはそこで、既存のコミュニティでは伸ばしにくかった尖った作品を生み出す土壌になりえるのでは?
 
「そんなの理想論だよ、実施にはマガジンで連載しているだけなのに、海外意識しろって話が来てるよ」
という話なら、その話をしてほしかったよねここで……。
 
長くなったので後半については後日かきます。
natukusa

natukusanatukusa

返信先natukusa
当たり前なんですけど、結果的に嘲笑を受けたことへの不服申し立てに「そんな活動をしているからだ」と返すのは、「そんな活動をしているなら嘲笑を受けても仕方なく、不服と思うこと自体が不当である」と封殺する方向に作用するので、私は反対します。
二次創作活動における責任や是非を問うのに、嘲笑や侮蔑という行為を伴う必然性はないはずでしょう。
natukusa

natukusanatukusa

返信先natukusa
疲れてやめた話の続き。
 
ここからは私個人の見識を色濃くする話なんですけど、この件で「Vtubeは配信で二次創作BLの話を一切するな!」って空気になられても困るなあと思う。
実際にこの一連の話題の中で「次の同人誌には注意書きいれるわ」という同人者は複数みたし、実際そう書いてる本は増えると思う。
もちろん作者個人の見解としては各々に全然あっていいんですけど、同人文化のこれまでの実績からいって「界隈の常識」にすり替わったり、Vtuber全般を忌避する風潮が強まったらヤダなあって思う自分がいる。
 
Vtuberって通常開催されていたころのコミケでも本人・関係サークル込みで数百サークル集まるような一大ジャンルで、漫画アニメの二次創作同人誌を描くオタクとは互いにリアル隣人で。
それとコミケの参加者注意書きには「サークルの前で本やジャンルを貶すのはやめましょう」って項目があるんだけど、今回はちょっとここにかすってる気がする。意図して貶したわけじゃないだろうけど、意図せず貶してしまった。
 
「ご迷惑をおかけいたしましたので、今後ともそちらには関わらないでいます」「そちらとは今後一切交流を持つ気はありません」
とかやっても、個々人の方針ならともかく「界隈」みたいな規模ではもはや両者はすぐそこの距離にいて、人もコンテンツも行き来してる距離なのに、配慮するという理由で断絶されても物理的に無理だし、無理を通そうとすれば矛盾が生まれる。
 
完全に断絶できないものを完全にしようとしたって無理しかなくて苦しくなるのは、検索除けだのなんだので散々どうなるか見てきたんですよこちとら。
そんで後から「こいつら本の中にこんな珍妙な注意文書いてるぞ。こんなもの書いたって意味ないのに珍妙な掟を守ってる珍妙なやつらだなwwww」とかいって笑うまでがセットだろ、俺は詳しいんだ。全部まとめて腹立つ。
だからこの件で「掟」呼ばわりしてたやつらには相当腹立ててる。
 
まあそれこそ「外野」の話で、今回、当事者の周囲の人たちには、互いに仲良くなれとは言わんが「次からは気を付けて。あとはお互い元気でな」と、コミケで目当てのサークルいくために別々の道行く参加者同士、くらいの着地してほしいなと思う。
natukusa

natukusanatukusa

さくらみこさんの生配信で同人誌が取り上げられた件、いろいろ鈍い痛みがあるなあと感じてるのでここに置いとく。
 
Vtuberの宝鐘マリンとさくらみこ、生配信でガンダムBL同人朗読、笑いものにし炎上。陽キャに趣味をバカにされたオタクのトラウマをほじくり返す - Togetter
 
自分の同人誌でこれやられたら心折れるな……という感傷は前提として、
よく言われるような「(オタク文化に理解のない)陽キャに描いてるマンガ取り上げられて」とも違う感じ方で。
むしろ「文化に理解のあるオタク同士が『俺らこんな痛いもので遊んでるんだぜwwww』ってイキッテる」の痛さ、居たたまれなさがあった気がしたんだよね。
 
たぶん、この帽子かぶってる方、宝鐘マリンさんのことは、Vtuber知らないなりにTLでよく見かけてて、確か本人も絵をかいたり同人誌読んだりする人なんだよな? という前提知識もあったからかも。
 
あとから確認したら、さくらみこさんもマリンさんも美少女ゲーム好きで、マリンさんだけBLやおいも嗜む程度には好きらしいと。
ということは、最初に感じた『俺らこんな痛いもので遊んでるんだぜwwwwイキり』感はそう外れてなかったのかなと。
 
一連のコーナーは、さくらみこさんが事前にリスナーとともに計画し、マリンさんへのドッキリとして仕掛けた一企画として聞いております。
だからよくこの顛末を書いた記事では、「あれはただのサプライズプレゼントだから、コンテンツに対する悪意はない」という説明がなされているようだけど、いやーそれはないでしょー。
 
だってあれは「マリンさん好みの本」というわけではないんでしょ?
二次創作BLにおいて、何が好みの本、読みたい本かって「このキャラクターとこのキャラクターが描かれていること」が最大かつ一番の要求項目ですやん。それなのに、知ってはいるけどはまってはいないキャラの本をプレゼントされてもそれは「読まない本を贈られた」わけで、プレゼントされたことは喜べても、品ものとしての喜びは薄いよ。
贈り主のさくらみこさんが、そのあたりの二次創作BLの機微に疎いとしても、二次創作BL抜きにプレゼントとしての要件、「相手が喜ぶものをリサーチする」をしてないのは流れを見ても明らかなわけで。
 
動画の中でも直接的に話が出てきているけど、「普段からBL興味ないさくらみこが、あえて読んだり選んだ本を渡すという驚き」が主題でしょう、この企画。
それも「作品そのものに感動を受けたもの」「私この本、超感動したの!だからプレゼントする!」ではなく
「作品やキャラクターは知ってる」程度にとどまってて、ウケ狙い重視で「ねえ見て!こんな変な本が世の中にはあるんだよ!」をもとにしたチョイスであるというのはさすがにわかるよ。
 
番組とかサプライズとか抜きにしても、普段から「ねえ見て!こんな変な本あるんだよ!」とリスペクトなく作品紹介される自著を見かけたら、二次創作BLじゃなくても不服に感じる作者は多かろう。
もちろん、「むしろネタいじり歓迎!」って作者もいるだろうが、「作者の意向」という意味でならどの感情を抱いても価値は同じはず。不服に思うのは不当だとか、歓迎する作者は良い作者だとか、そこに差をつけるのは本質的にはあんまりいいことではない。
(それを受けた側が、次にどういう行動するか? しやすいか? という差はあるだろうけどもね)
 
こういう文脈で紹介されたら、どういう本でも「クリエイターやクリエイションに対して敬意が感じられない」と言われてしまうことは否定しきれん。作者がそこに対して不服に思うか、受容するかはその人の判断の差。
 
で、そういう敬意の感じられない扱いを、自分が愛好してるジャンルや作品には普段からするか? と考えると、自然とブレーキかけるんじゃないの一般的には。
「めっちゃどぎついんだけど、ここまでどぎついとかえって尊敬する!」みたいな感動で紹介することはあるかもしれんが、今回の本がそこまでガチきついやつかというとそうでもないよなきっと。
普段ならブレーキをかけたかもしれない箇所に、「二次創作BL」相手にはブレーキを鈍らせたことには、まあやっぱり二次創作BLも、BLも、世間一般的にまだまだ軽んじられてるんだなあ……という感慨は湧いてくる。
 
当事者は女性でオタク文化にどっぷりの二人だから軽んじてない! という声もあるかもだが、一女性オタクとしては女性オタクが自分が愛好してないジャンルを卑下するって別に珍しくないので……
BL好きが乙女ゲームや夢文化をバカにしたりその逆だって全然あるし、あと直球に「腐女子」を卒業して美少女ゲームにはまった途端に砂かける女性オタクも全然いる……。
そういうものを思い起こさせるという意味でも、今回の動画は結構クリティカルにイタタタタってなります個人的に。
 
ただ、マリンさんは動画の中でも表紙を参考にカップリングを正しく読み取って、さくらみこさんの訂正をしたり、タイトルいうのを制止したり、ツイッター上でのその後の反応を見ても、早々に火種に気づいている節があるなあと感じる。
だからか、いろいろ情報を仕入れたうえで見ると、自分には「場の空気に逆らえなくて、好きなものを卑下するかのようなことを言わざるを得ない状況に追い込まれている」というイタタタタタタタタタもすごいあるんですよねあの動画……。
 
総じて、オタクバッシングがもっとひどかった時期に、自衛のために卑下せざるを得なかったあの頃感がすごいある。
令和になってもまだこれがあるのか……とずしんと重い。
 
動画やその演者についてはそう思う一方で、今回は同人誌の作者側の視点としても簡単に断じれない複雑さを感じてる。
 
まとめ記事には作者さんのコメントが残ってるけど、それ見る限りでは作者さんはどっちかいうと「不服だが、大きく騒ぐ意思はない」という感じだよね。
今回の件でもさんざん二次創作BLジャンルはデリケートだ、女性向けは村のおきてが違うだなんだとといわれるけど、その中では相当にタフでクレバーな態度なのでは。
 
https://twitter.com/n72699389/status/1377214694801297408
その後の経緯説明をみても、「双方で触れないよう合意して話を進めていた」とあるから、かなり早い段階で配信者にアクセスして、それも公での謝罪を要求するとかでもなく静かに進めようとしてたのかなと。
そういう意味じゃ、自分もその後も勝手に話題にしていたのは反省がある。
 
なんとなくだけど、作者さんとしてもスッと消えて終わらせたい、という欲求を感じる。
あの動画があのままいじられるだけのおもちゃ扱いでいたら、今度は現役でそのカップリングや同人活動してる人に迷惑がかかるし、
もっといえばそっちのジャンル者から「お前のせいで変に騒がれてるんですけど」と作者さんが逆恨みされるかもしれない、という恐怖もあったかもしんない。そこは同人文化の中のねじれだな……。
 
私としては、その文化がしばしば軽んじられているという背景があるからこそ、不服に思ったのならそれをちゃんと申し立てするのは大事なことだと思う。
相手もそれを受けて問題点に気づき、謝罪する一連の流れを評価することとは、単に水に流してなかったことにするということではなく、「同じくらい軽率な輩は今後も許さんぞ」を内包する。
 
でもさー、それで腫物のように扱ってほしいわけじゃないんすよー。そういうのじゃないんすよー。
下にして怒られたから、上(ということにしている場所)にして隔離するなら同じことなんすよー。
そうじゃないんだよー、どうなんだろうなーということを考えたところで疲れたので今日は終わる。
natukusa

natukusanatukusa

はてブのお気に入りフォローをできる限り外した続報。
 
気が付いたらブクマが増田ばかりになっている……
各カテゴリー上位やネットで話題になるものばかり中心に見ちゃうから、
人気記事は自分がコメントせんでもええやろ感があり
なおかつつっこみやすい増田にばかりコメントしちゃってる。
 
それで楽しいならいいけれど、変な話、見るものの幅があんまりない気がして滅入ってきた。
「みんな」があげてくるものよりも、自分がピンとくる人にくっついて
その人のキュレーション拾う方が根本的に向いてる。
 
まあせっかく10年来の棚卸をしたわけなので、以前と違う人についていくのもいいのかなー。
natukusa

natukusanatukusa

はてブのお気に入りフォローをできる限り外したところ、ブクマするものがホッテントリ入りをすでにしているものばかりになってんな。そりゃそうだな。
とはいえなんか今回の「ほかの人の情報をあんまり見たくない」モードが長く続いてて、改めてフォローするのもしんどい。
ツイッターもしんどくて、誰もフォローしてないアカウントから今興味あるもので検索して眺めるだけになってる。
寒くなってきて、心身のパフォーマンスが落ちてるのかもしんない。
地元はいま雪です。
natukusa

natukusanatukusa

返信先natukusa
全部フォローを外したはずなのに「4」になってる……
もうやめちゃって不可視化されたアカウントが、フォローだけ外せなくて残ってるのかな。
 
一応自分、はてブは2005年から使ってるそうなんですが、
その間でそれだけで済んでるのかと思うべきか、そんなにいつの間にかいなくなってたと思うべきか。
natukusa

natukusanatukusa

私という人格、根本には「他者=自分じゃない人という存在が許せない」という強い感情がありやして、その波が日々強くなったり弱くなったりするんですけど、ついさっき瞬間的にムラッとしてはてブのお気に入りを全部解除してた。
 
そこはアカウント消すんやないんかーいって自分でも思ったんですけど、なんか、自分じゃない人の意見を目にしたくないけど自分は発信してた行って気持ちが強く出るときがあるんだよね……
ツイッターとかだとそういうとき用に誰もフォローしてないアカウントがあるけど、はてなでそれは難しいからなあ……という考えが走ったのかどうなのか定かじゃないけど、なんか衝動的にバーッと消してた。
そういう割にアカウント一覧みてたら「この人、もうはてなで活動してないんだよなあ…」ってちょっと寂しくなったりもした。ほかでは活動してる人もいるけどね。
 
あとで後悔するのかなー、わからん。
natukusa

natukusanatukusa

一回書いてみたら思いのほかハイクっぽい感触があったので、もうこのまま1年半越しの引っ越し先にしようかな。更新頻度は1年に1回とかだろうけど。
 
タイミングよく?リサガスさんのブコメに軽い同窓会気分になったのもあるかもしんない。
有村さんがいてコンビニ店長がいたころ+後3年くらいのはてなの空気を牧歌的に思ってるかというと思ってないんだけど(お二人自身のことは今でも好きです)、縄張り意識とその線引きルールは当時と変わってるなあと思う。
 
いま特にホットなのは「フェミ」なんかね。
ずいぶん前から定期的に話題になるモチーフだし、名乗ってる人ははてなにもいたけど、なんかもっとカジュアルに名乗る人が増えたし、ネット上でこれほどまでの塊になったのはたぶん初めてなんだろうか。
 
”SNSが論調を先鋭化させるのは、政治でも友達づきあいでもアニメのファン交流でも同じだけど、
なんというか「フェミニズム」もそこにきちゃうんだ?という驚きがある。そんだけ広まったこととの裏表かもしれない。”
SNSが論調を先鋭化させるのは、政治でも友達づきあいでもアニメのファン交流でも同じだけど、なんといういか「フェミニズム」もそこにきちゃうんだ?という驚きがある。そんだけ広まったこととの裏表かもしれない。 - natukusa のブックマーク / はてなブックマーク
 
これ書いたのが2019年6月。
元記事の話からフェミニズムがネット上で先鋭化するほどの塊になってることに驚いてるブコメなんだが、人によってはおせえよなんでしょうね。
でもやっぱり驚いたなあ。フェミニストという呼称が、どこかのまじめなメディアで描いてる活動家や研究者ではなく、SNSのクラスタと呼べるくらいの規模になってることが。font-daさんのブログ読んでるだけでも、ネットとの相性の悪さはひしひし伝わってたので、まさか、と。
当時の気持ちはどうだったかな。特に喜んでも悲観してるわけでもないと思う。ただただびっくりした。
 
よく、この対抗勢力に「オタク」とか「表現の自由」とか「反規制論者」があてられてるけど、たぶんその源流はレイプレイ騒動のあの流れがまだ生きてるのかなあと思うが、
なんかこう、自分の中では、その二つの勢力が向き合ってるって感じはなくて、「フェミ」と呼んでる・呼ばれてる集団と、「フェミ」を警戒している人たち(集団でさえない)という感じがしている。
「フェミ」がフェミニズムやフェミニストの歴史の中にどう含まれるのかは、私は識者じゃないのでわかんない。やべーなとおもってるフェミニストもいるだろう。特にここ数年で一気にTERFの存在が知れわたって、一緒にされたらまずいと思う人は増えてるだろうな。でも一緒にするからこそ対抗できると考える人もいるだろうし、それこそ自浄作用というやつなのでは。まあでもやっぱり私は識者じゃないのでなんともいえない。
 
なんだろうな、やっぱり、「昔、2ちゃんねるで女たたきしてました」系増田がよく書きがちな「ネットは俺たちのところで、女はあとから来た異物で侵略者」に形が近いけど出所が違う近いもの……と思っていた。
少し前によくばずったすももさんの記事は、明らかにあの2ちゃんねるに渦巻いてた理屈や構文をより丁寧に濾したような内容で、でも本人はおそらく2ch文化には直接触れたことそんなにないんだろうなと感じて。
あの掲示板に直接カキコしてないような人でも、そこで醸成された思想に染まるほどに考え方だけが広まってるのか……と感じた。
(ちなみに、そういうこと書いてる増田自身が当時本当にそういう意識だったかは疑わしいと思ってるんだがね。そうじゃないってわかってるけど、乗っかってるやつも相当数いただろうと)
 
その昔、「腐女子」や女性オタクを叩く風潮が強まった時に、叩いてる側のことを「(男性の)オタク」と呼ぶのはよくあったが、当時から「まとめサイトにたむろってるオタク層と、実際に同人活動したりイベントやコミュニティに実際に参加してるようなオタク層ってあんまり重なってなくない?」と思ってたし、当時ハイクでも書いたようなー気がするんだけどーどうだったかな。まあでも、思ってたんですよ。
だって、後者に属する特に男性たちは「いや……女性のオタクとかイベント行けば普通にいるじゃん……なに驚いてんの……」みたいな反応でしたよ。私の観測範囲である、数人の男性オタクの友人知人だけのサンプルで申し訳ないんだが。
行けば女性が一定数いるのはわかる機会はしばしばあるはずで、なのにネット記事みて「え!?そうなの!?」とわざわざ驚く人って、そういうとことの接点が薄いんじゃねえかなって当時も感じた。
それも気が付けば10年以上時間がたってて、時間がたてばたつほどこの両者は混ざりあっていったし、前者の体験こそはなくとも、前者を先人としてオタク業重ねてった若い人ももいたんだろうな~と感じることが増えた。それがすももさんみたいな世代なのかも。
 
話がそれすぎた。なんだっけ、そうそう、縄張り意識と線引きのルールね。
私自身、暫く離れてた時期もあるし、はてなで話題を呼ぶ主要メンバーが入れ替わってるから、知らんところのトレンドとか流れとか背景があって、「この話題は地雷」「この切り口はあっちの理屈」みたいなものが生まれてて、知らんうちに踏んでるんだろうと思う。
実際そうこうしてるうちに奇妙な思想に染まってることもあるから気を付けないとな~とは思うが、それにしてもよくわからんところにあるなと思う。私も年取ったからというのもあるかもしんない。
 
「フェミ」批判するなら、TERFの話だけでこの先100年分の鬼の首が取れるんだから、ガンガンそこつつけばいいのに、JKローリングのやべえ記事に日和ったこと言ってるはてなーばっかりだもんー。そこ今一番の弱点なんだからがんばってつけよ。私も応援するよ!
ラブタイツの件で美少女ものを愛好する女性に降りかかる同性からの抑圧にやっと気づいたはてなーも今になって同情してるようだが、別件に目を向ければ、同人女の同調圧力の被害者であるヌメさんには妙にあたりが強いよねはてなー。
一昔前にはてなでさんざん良くない良くないって言われてた同調圧力のわかりやすい被害例がヌメさんなんだが、あの頃声高に同調圧力よくない!って叫んでた人どこ行ったんだよ。今ここに現物サンプルがあるんですよ。一緒に対抗しようぜ!
 
とかなんとか、ここ2年弱の間に思ってたより書きたいことがたまってたみたい。
natukusa

natukusanatukusa

どこにも書く場所ねえな~と思って初めてログインした。
ラブタイツ広報企画の件で、思うところがたまってるので置いとく。
 
初めて企画を見て、その後のあれこれ見ててずーっと思ってるのは、良し悪しとか以前に「どういう意図をもってあの絵を描いたんだろう」ってことで、それについてつらつら所見を書いとく。
 
絵描きその人の責任だって問いたいのか!? ってそうではなく。企業の広報案件てどんな内容だって、まず絵描きの外側に企画者という、絵を作って世に出したい人がいるわけやなすか。
この場合の絵描きは「きっとこの人はこういう絵を作り出したいんだな」という意図を組んで絵を出力するので、あくまで絵を生み出して世に送る装置の一部分なわけで。ちなみに、だからそこに責任などないのだ! って話をしたいわけでもないです。全体の一部だっつってんの。
 
ともかく、「こういう感じの絵をいっぱい描いて世に送ったらいい感じかもしれねえ」という誰かの意思があって生み出されて、まあたぶんそれは噂の広報担当さんなんだろうけど、その人の責任を問いたいわけじゃなく、ていうか誰かの責任を問いたいわけじゃなく、ただただ「この人は何を世に伝えたかったのか」の部分がずっと引っかかってて。
実際この感覚って、あちこちの反応みててもしばしば「どういう依頼書だったんだ?」と言ってる人がいるように、みんなこの絵と企画の真意が伝わんないと感じてる人は、まあまあ珍しくないわけでしょう。
何かが引っかかって伝わんないんだよなあ。あんなにレベルの高い絵なのにね。
 
趣味の絵だったら、なんかかっこいい・なんかかわいいでも成立するけど、大人に予算もぎ取ってたくさん調整するからには、絶対プレゼン資料に「これはこういう企画です!」って書くでしょ。それが知りたい。
 
それでまあ、絵の魚拓を眺めたり、特に本業イラストレーターさんがこの案件に向ける感想をぼちぼち見てたら、
某イラストレーターさんが「絵描きのpixivみに行ったら、普段はこういう傾向の絵をかかない人が多い。だからやっぱり依頼側がメッセージ性を指定してると思う」という旨のことをいうてはって。

そこでぼんやりと浮かんだ企画意図が「素敵なタイツ姿でドキッとさせちゃお!」だった。
やけに絵のこちら側に呼び掛けるようなキャプションやシチュエーションが多いのと、特にスカートまくってる絵の発想を思うと、今のところこれが一番しっくりきた。
ものによってはこちらに積極的なアピールしてない絵もあるから、広告的なメッセージに置き換えるなら「そのアイテムを身に着けてることで、あなた(客)の魅力がアップしますよ」の一派なのかなと。
 
魅力が上がっている状態を表現で伝えるにはいろいろ手法があるけど、この場合は「誰かの魅力があがったことでドキッとする人がいる、ことを客が観測することで『あの人の魅力が上がったんだな』と感じる」の手法ね。
漫画やアニメでも、美人といわれてるキャラクターが、周囲のモブからきゃあきゃあいわれるシーンを見ることで、読者が「この人は魅力的な人なのだな、と感じる」という形で日常的に使われてるやつ。
 
広告、それも身に着けるもので、そういう演出をつけることの効果は少しねじれてて。
だって魅力的だと感じる人とは、そのアイテムを買って身に着ける人その自身ではないわけでしょう。たいていは、誰かに魅力的だと思ってほしい別の誰かがそれを身に着ける。
だから広告は「誰かにはあなたはこう見えるかもしれませんよ、これを身に着ければね!」と示すことで購買意欲をあおってくる。
 
同時期に話題になったチュチュアンナの広告も根っこは同じで。あれは、こういうコーディネートにこのタイツを合わせると可愛いですよね、と語ってくる広告でしょう。
ただあっちはもう少し支店の構造がシンプルで、客自身が姿見を覗き込んだ時の距離でいってくる感じ。
絵の構図から言ってもほぼ真横からの構図で姿見っぽいでしょ。特定の誰かの目線を一回介して魅力を伝えるアツギの演出より、身に着けたものを鏡の前で確認して良しあしをチェックするような、客の主観にぐっと近い。
 
ちなみに、主観だからよい、客観だからよいという話をする気はないし、そういう話に引用されるのも遺憾です。
技法的には、このメッセージを伝えるためにはどちらの方法がよりよく届くだろうか、という使い分けの差です。
 
「誰かにはあなたはこう見えるかもしれませんよ、これを身に着ければね!」というメッセージって割と大事で。それによって「これは広告なんですよ」という前提が伝わる。
ビル街で大爆発が起きて逃げ惑う人々の映像を、報道映像という前提で見るのか、映画という前提で見るのかで、受け取る側の心証は全然違うわけじゃないすか。一番困惑するのは報道なのか映画なのかよくわかんないやつ。そういう演出をつけてる映画もあるけど。
 
ともあれ、絵師ファン増田が追記で書いてたアツギの広告絵への「タイツを履く人の目線じゃなくてタイツ女子を愛でる視線が強い」という感想は、たぶんそういうところからきているし、
と、同時に「誰かにはあなたはこう見えるかもしれませんよ、これを身に着ければね!」という広告としてのメッセージが弱いゆえに、
「タイツを履いてる女性の姿を、誰かが観測している絵」という絵の表層の情報だけが強く印象に残り、
さらにPR案件であるという事実に「えっ、なんでそんな絵をタイツ売ってる会社がわざわざ作って世に出したの!?」という困惑が、私の中にはずっとあるのね。
 
なので、その困惑を少しでも自分の中で解消するために、あれこれ読んで聞いて今この記事書いてる。まあ、全部憶測ですけども。
 
自分はずっとその点がすっきりしなくてあれこれ人の感想を見たくて情報を追っていた節があるので、それ以上の話は語れるほど思うところはまだない。
 
仮に私が感じてたような困惑を最初から感じさせない企画だったら、もっとカラータイツや柄物の比重を多くして「こういうタイツもあるんだ~」情報を厚くしてたらとか、防寒対策でタイツ履く時期にだいたいみんなフトモモ出してる服なのやめたら顧客の感覚とマッチ度高まったんじゃないかとか、そういう広告としての情報を手厚くしてたらとかとか、一社会人として考えることはありますけど。
でもやっぱり、問題視する人が現れなかったかというと私にはなんも保証はできん。表層をめぐる問題は、いつだってなんだって大なり小なり課題を抱えていると思う。
私が日常的にタイツを買い装着する立場として、この企画をみて無視をするでなく、自分たちに寄り添ってないことに失望するのは、絵の本来の意図とは異なる、しかし日常的に立ち会う嫌なエピソードと全くの無関係であるとも言い切れない。
 
その一方で「ああいう性質の人が参加したから駄目だったんだ」「こういう性質の人がやってるのに叩くなんて見境ない」などという人は、私からすれば、誰かの持ってるだけの性質を理由に、雑~に表層物が持つ問題を切ろうとしているという点で見分けがつかない。作った人の性質を絡めて語るってそりゃあるけど、それにしてもこれは浅すぎてそうじゃねえだろと。
美少女ものが好きなやつは変だとか、美少女ものが好きな女性なんかいるわけないとかこの期に及んでいってるやつは言わずもがなだし、批判する側は美少女ものが好きな女性を傷つけたから悪い! みたいにいってる人も、美少女ものが好きな一女性でありながら、企画に批判的な感想も抱いた私みたいなやつは視野の外ってことでしょ。それって前者とどれくらい違いがあんの?
 
そういう、語ってる人らの姿に思うところはあるんだが、それは別にこの件の本質ではないのでもう追いかけたくない。