平清盛
『双六が終わるとき』は清盛の台詞「惣官職を置く」に表れる構想力が気になりました。
1181年には宗盛が畿内惣官に任じられています。畿内五国・近江・伊賀・伊勢・丹波の軍事指揮権を認められており、終盤双六で後白河法皇に勝った清盛が求めた、武士が世を決めるための法の根拠であったと言えます。時代考証を担った本郷和人さんは、畿内惣官を頼朝の征夷大将軍に匹敵する役職と書かれています。(本郷さんは『福原幕府』、高橋昌明さんはそれより少し早い『六波羅幕府』であったと言われています。)
本郷さんも頼朝の武士の世は清盛を参考にしたとの立場ですが、最晩年の清盛ではなく、なろうとして諦めざるを得なかった清盛の理想の姿を目標にしているので、そこに清盛の哀しさが滲みます。しかし清盛も王家に負けるなら死にきれないが、同じ武士である源氏に敗れるなら本望かもしれません。
西行・待賢門院堀川局・藤原俊成と百人一首に名を連ねる人たちが続々登場。保元の戦の折 “図書允俊成” という人物がいたので、藤原俊成かと思いましたが悪左府頼長の家臣でした。ちなみに私の本名の一字は俊成に由来します。