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ヴィーガニズムにもいろいろあるので、私が以下で述べるのは、ある種の原理主義のことだと思っていただきたい。

私はヴィーガニズムの支持者ではあるが、ヴィーガンとして生きてはいない。際限なく悪を為す大悪党として、私は日々を生きている。それがいかなる心情であるかは、8年前に書いた。

少数派の言論の自由と、命について
http://deztec.jp/design/10/05/18_life.html

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物心ついた頃から、私は、自分の命が、他の多くの命に支えられていることを認識していた。そして、自分にそれほどの価値があるとは、どうしても思えなかった。牧場へ行って柵の中で暮らす牛や豚を見ると、申し訳ない気持ちになった。幼稚園のイベントで芋掘りへ行けば、本来、サツマイモは翌年に新しい芽を出すために根を太らせるのだと教えてくれる。どうして人間がそれを食べてしまってよいのか、私にはわからない。

私がムスッとしているのを見つけた先生が「焼きイモおいしいね!」という。私は板挟みになって悩み、結局、笑顔を作って焼きイモを食べてしまう。自分は、こんな、こんなことを言い訳にして、サツマイモが何ヶ月もかけて太らせてきた命の源を食べてしまうのだ。悲しかった。イチゴ狩りにも行った。イチゴの実には、小さな種がたくさんついている。「この一口で、どれだけの命が未来を奪われるのだろう?」私はいまだに、種の数を調べたことがない。

自分が死んだら親が悲しむとか、そんなことはいくらでも思いつく。だが、それが私の生き続ける最も重要な理由ではないことには、気付いていた。私は、死を恐れ、快楽と怠惰を求め、ただそれだけのために他の命を犠牲にし続けているのだ。

幼い頃、私は夜、布団の中で丸まってシクシク泣いていることが多かった。静かで長い夜は、あさましく生きる自分を見つめる機会を提供してくれた。私が泣いていることで母がひどく胸を痛めていることを知って、私は感情を押し殺して心の中で泣くようにしたが、基本的な世界認識に変わりはない。

(中略)

鶏に感情移入して怒るというのもおかしい。私が一時期、観察した限りでは、鶏は卵を人間に取られたことを認識できていないか、日々忘れていっているように見える。餌さえもらえれば、喜ぶ感じだ。鶏は怒っていない。卵を取ることに胸の痛みを感じるのは、自分の問題であって、じつは鶏は関係ない。

まだ若い実を奪われるイチゴも、当然、何も考えていない。イチゴは悲しまないし、怒りもしない。逆に、イチゴは人間のために実をつけているのでもない。ただ、生きている。
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懇切丁寧に書いたつもりだが、最初から理解する気のない人には理解できまい。

私の理解では、ヴィーガニズムは「人は正しく生きることができる」という「欺瞞と思い上がり」への挑戦である。多くの批判は、「そんなこといったら人は正しく生きられないということになってしまうではないか」という前提に基づいており、初手からすれ違っている。

その意味で、先日はてブでちょっと話題になった反出生主義と、「なぜ話題になったか」「見当違いの反応を浴びせて全く理解する気のない人が多いのはなぜか」という点について、構図を同じくしている。

はてなブックマーク - ヴィーガニズムは正しい。正しいがゆえにそれは人類社会の敵である
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20180131155044

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id:camellow 結局どこに線を引くかが違うだけで線引き自体は必要。そうでなければ虫どころではなく草や土や石を踏むこともできなくなる。
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人は罪を重ねて生きていくしかない。ヴィーガニズムとは、そういう主張だと思う。正しく生きることなど、人にはできない。どこかで線を引いて、線のこっちで生きている分には自分は間違っていないのだと、正しく生きられるのだと、そういって安心することを否定するのがヴィーガニズムである。

私自身はふつうに動物食もする。行動面では全くヴィーガンではない。だが、「動物食は正しい」と胸を張らない点で、ヴィーガニズムの側に立つ人間である。

殺人の悪を認め、復讐殺人など間違っていると考えていても、自分の心の弱さゆえに復讐をせざるを得なかった人物を描くフィクションは多々あり、何度か目にされたことがあると思う。私はそういう立場に身を置く人間である。復讐殺人を否定する価値観を否定し、「悪を倒した自分は正しい」と断言して恥じないキャラクターとは違う。

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id:lastline ヴィーガニズムは植物を食べても(搾取しても)良い理屈を明示できない時点で正しくない。
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「植物なら食べてもいい」のではない。痛みや悲しみを感じる神経組織がない分、動物を食べるよりマシだといっているに過ぎない。いかなる命も犠牲にせずに生きることなど不可能だから、より悪の小さい生き方を選ぼうとしているだけのこと。

胸を張って食べていい命など、どこにもない。どこかに線を引いて、線のこちら側だけで生きれば「正しい自分」を信じて誇りを持てる、なんて都合のいい話はない。

ヴィーガニズムや反出生主義に接すると「じゃあ死ぬしかないね」と反応する人が少なからずいるが、そうではない。これらの思想は、実践的には「悪を背負って生きろ。正義面して生きるのは欺瞞だ」という主張なのだと、私は認識している。

悪いことだと思っていれば、悪を為さないことは不可能だとしても、自分に可能な範囲内で悪を小さくしようという気持ちが、常に働き続けるだろう。線を引いて、そこからこっちは正義だといってしまえば、そのブレーキが働かなくなる。

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ravell 動物側は人間を含めた他種族を差別しているように見えるんだけど、ここの整合性はどうとってるのかね。動物側からの殺生はキレイな殺生なのかしら?
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動物は倫理の体現者ではない。倫理とは、それを守らない者がいるから自分も守らない、というものではない。殺人者にも人権を認めるのでなければ、人権の普遍性など嘘っぱちである。生命を奪うこと、生命を虐げることが悪なのは、動物が倫理を持たないことによって、何ら反証されない。

動物による殺生も悪である。彼らはそのことで思い悩むことはないが、それによって悪が減殺されるわけではない。どこかに「正しく生きる」ものがいると考えるから、そういうことを不思議に思うのだ。全てのものが悪くしか生きられない。倫理なきものは、倫理なきゆえに、より悪の少ない生き方をできないでいる。そういうことでしかない。

人は倫理観を持つことができ、自分の生き方を、各々にとって可能な範囲内で、より悪の少ないやり方に制御することができる。減らせる悪は、減らすべきだ。