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詳しい。「差別は悪」且つ「許容できる悪もある」という形式。「していい差別」と「許容できる差別」の違いはなに?レッテルの貼り方の違いに見える。/ 結局、根本である差別の判断基準が示されていない。
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id:tick2tack これで回答になるかわかりませんが、私は「許容」の線引きより、「許容した差別」との向き合い方に関心があるわけです。

「していい差別」と「許容できる差別」は、通常の日本語としては同義ですが、説明の都合上、当該記事にて独自の語義を与えました。

あらためて書けば、「していい差別」とは、「後ろめたさを感じなくてよい差別」です。「より重大な問題に対処するため」という大義名分のもとで行われる「していい差別」に対しては、「差別ではある」という指摘すら不当な批判であり、重大な問題の解決を妨げる悪とみなされる。「正しい行いを批判するのは不当だ」という。

私は「していい差別」などない、と主張しました。人間の能力には限界があるため、「より重大な問題に対処するため」に、やむえを得ず最小限の差別を許容する必要は認めますが、「目的が正しいので、この差別も正しい」とまでは、私は認めません。あくまでも必要「悪」であり、常に「差別の悪」を意識し、「より小さな悪で同じ目的を達成できないか」と考え続けるべきだと思うのです。

これは、割と明確な違いだと思います。

女性専用車両はあくまでも必要「悪」であって「差別」批判をきちんと受け止め、より悪を小さくできないか、常に意識しつつ運用していくべき(だが、そうできるほど人間は優秀じゃない。でも、「べきだ」という気持ちがなければ、まず始まらない)。対して積極的推進派は、「正しい方策にケチをつけるな」という。被害者の気持ちを考えろとか何とか。被害者の気持ちがどうあれ、「差別は差別」であることには何ら変わりがないと私は思うし、目的が正しくとも手段が含む「悪」から目をそらしていい理由などないと私は考えるわけですが。

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例えば「憲法は合理的区別を認めている」の解釈って、大きく2つあるわけです。私は「憲法は現実的に人間の限界を考えて一定の悪を許容しているに過ぎない」と考えるので、「合理的区別は正しいので、何も後ろめたいことはない」と対立するのです。
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このあたりも、私の主張が端的に表現されているところだと思います。

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「差別」の明確な定義はしていませんが、とりあえず「個々人の差異の方が大きな事柄を、属性によって判断すること」あたりでしょうか。

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差別は形式的に定義するしかないと私は考えてます。歴史や文化や実感を持ち込めば、共通基盤の構築は不可能だと思う。現実的には、多数派を構成できさえすれば「コンセンサス」の形成には十分なのでしょうが。

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それは「アメリカの多数派は外国籍の者からの指紋採取を差別と考えていない」だけの話で、「だから差別ではない」と私は認めない。そういう文化ベースの判断を、私は否定しているのです。

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ヴィーガニズムは「人は正しく生きることができる」という「欺瞞と思い上がり」への挑戦
http://h.hatena.ne.jp/deztecjp/83458760220227575
それが差別であることまで否定したら、おかしなことになる
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補遺
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刑務所は人権侵害を認めて課題と向き合ってきたからこそ存続できている
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