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オラフの正体に注意して『アナ雪』を読み解く
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別にリンク先の記事に不満はない。「ああ、なるほど」と。

個人的に気になるのは、記事への一部の反応。というか、映画が公開された当時からのことなんだけど。

私や、私の身近な人々にとって、『アナと雪の女王』で最も感動したのは、エルサが雪の女王となったシーン。その先の物語も悪くはなかったけど、「ふーん、平凡なところに落ち着いちゃうんだな」的な。

私(たち)がさして感心しなかったところを、あれこれ読み解いて感動する人がいるのは、それはそれでいい。そこに文句はない。

ただ、これはリンク先の記事自体にはそういう要素はないのだけれど、エルサが社会に背を向けて雪の女王となったシーンでこっちは感動してるのに、なんかそれをバカにするような意見もあって。

それも言論の自由だからいいんですけどね。自由だっていうなら、それに対して「ムカつくなー」というのも自由なんでね。

元の映画は、たしかにエルサが社会から離れて妖仙の類になった先も続いて、「やっぱそれじゃあかんでしょう」という話を展開するのだけれど、それは脚本家の都合なんであって。観客の中では後半の物語はスルーして、「最初の Let it go で大感動した!」といっていいと思うんだよね。

いや、誰もダメだなんていってないんだから被害妄想的な話なんだけど。

でもなんか脚本に引きずられるっていうんですか、「映画はその先を描いてる」ことを理由に、前半で感動してそこに留まってる人は「映画を読み解けてない」的な意見とか、これまで何度も見聞きしてきたので。物語を全部理解していれば、最初の Let it go が最大の感動であるはずがない、みたいなね、そういうの。

違うんだよなー。これまで、社会に背を向けて「好き勝手に生きる!」みたいなのを描いた作品自体はいっぱいあるんだけど、どれも『アナ雪』ほど美しく、それを本気で肯定するかのような描写にはしてくれなかった。私の中では、あの場面で『アナ雪』は「完」なのだ。

後半の物語は「世間様との折り合いも適当に付けておかないとね」と了解するが、自分にとっては重要でない。私の中では、夢と希望を見事に疑似体験させてくれたサイコーな前半に尽きる。

なので、『アナ雪』は私にとっては「ありのままの自分になる話」だ。その先は世間とのしがらみによる蛇足に過ぎず、どうでもよい。それをだね、『アナ雪』を「ありのままの自分になる話」だと解釈する人は「わかってない」とかいわれると(リンク先記事のことではない)、「わかったうえで、あえてこういってるんだよ、逆にそれくらいわかれよ」と反論したくなる。

あんたら、脚本家の奴隷かよ、と。物語をどこで「完」とするかくらい、自分で決めたらいい。『まどマギ』とかもね、私は劇場版の主張を支持しないので、テレビ版で「完」だ。『ダークナイト』も、『ダークナイト ライジング』は私にとって蛇足。なかったことにする。物語が先へ進んだら、より正しい方向へ考えも進んでいるというわけじゃない。

シリーズ物の映画で、「2作目まで支持」とかがあるように、1つの映画の中でも「48分までは支持」とか、そういうのでいいと思う。