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自分の親を見ていると法的責任はなくても社会的責任はいつまでもついて回ると思ってたけど世の中はそうでもないのかな。子どもが成人したら責任という名のつくものは全て放棄されているんだろうか。
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他人がどうこうではなく、自分がどうありたいか、どんな社会を望むのか、だと思います。私は子の犯罪で親に責任を負わすことに明確に反対。社員の私的な犯罪で勤務先の責任を問うことも明確に反対。
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ご回答ありがとうございます。社会的責任と道義的責任、法的責任は全く違うと思うのですがその点についてはいかがでしょうか。ちなみに私は親に責任をとって何かしろとは思っていません。責める気もないです
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id:akikonian 最初のコメントに関して、あらためてレスするところから始めさせてください。

「世の中では」というならば、「子どもが成人しても親の社会的責任はついて回る」のが現状でしょう。マスコミが親のコメントを求めるのも、その表れです。

しかし同時に、「自分は親を責任から解放したい」と考える人もいます。まず私がそうですし、はてブには同様の方がそこそこいるようですね。もちろん、妥当と考える責任解放の度合いは、人それぞれです。

私は、「成人した子の犯罪に関して親は100%無責任でOK」と考えています。子がどんな犯罪をしようと、犯罪そのものに何の関与もしていないなら、親の責任はゼロ。社会的責任も、道義的責任もゼロ。私自身は一切、責任を問わないし、他人が責任を問うことも支持しません。赤の他人と同じ扱いです。

親自身が気に病むことについては、何もいいません。「気にしないでいいよ」なんて、いうつもりはない。個人が個人の価値観において自分自身を罰するのは個人の自由であって、人がどうこう口出しすべきでない。結果、例えば自殺したとしても、そこに社会的圧力などが一切なく、純粋な自罰であるならば、私はお節介な介入を支持しません。当人に迷いがあり、他人の意見を求めているなら、私は「そもそも私にはあなたを責める気持ちなどありません」と話しますが。

「社会的責任」は、いわゆるCSRおよびその派生領域に話を限定すべきだと私は考えます。その前提を踏まえて、「個人の行った私的な犯罪に関して、周囲の誰にも社会的責任は存在しない」と私は主張します。「社会的責任」という言葉の語義を拡散させ、個人の私的な犯罪を語る際に持ち出すのは不適切だと考えます。

「道義的責任」は、違法ではないが不道徳ないし正義に反する行いに関するものだと私は認識しています。子が犯罪者になったこと、それ自体が親の不道徳や正義に反する行いを証明するものではなく、子の罪に関して親に道義的責任があると短絡することを、私は支持しません。

犯罪の遠因に、親の不道徳な行い、正義に反する行為があったと推認されるとしても、結果責任を問うことは否定します。その不道徳は、親の行為自体の不道徳の程度に比例して批判されるべきで、たまたま子が大きな犯罪を起こした事実によって非難の程度を高めるのは不合理かつ不公平だと考えます。

宝くじに当たるのが善性の証明でないように、子が罪を犯す不運が悪性の証明にはならない。私はそのように思います。

私が以上のように考えるのは、私と弟は同じ親から生まれて顔かたちも似ているのに、性格も価値観も全く異なる人間だからです。親は子を幸福にはできても、人間そのものを大きく変えることはできないのだと、体験的には痛感しています。