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id:tick2tack チケットを増やせないのに、チケットの定価を抑えたい、というのは、売る側の自分勝手なのです。

宝塚を「自分とは関係ない趣味」だと思う人が多い理由の一つに「チケット価格の高さ」があります。でも、ちゃんと完売しているのだから、いいのです。今より価格を下げたって、空いている客席がないのですから、意味がない。

その「意味がない」ことをよくやっているのが、音楽業界です。ダンピングが横行しています。それは東京が電車賃をダンピングして、過剰に人口を集めているのと同じことなのです。それで東京は人気を集めて安泰かもしれませんが、周りはみんな不幸ではありませんか。

電車賃が上がっても、みな地元の電車に乗るしかないのだから、市場競争は成り立たない……tick2tackさんが仰っているのは、そういうことです。短期的には、その通りです。しかし長期的には、「東京は電車賃が高く、社員の高い通勤費用を出せない企業は東京では商売を継続できず地方へ移るしかない」という過程を経て、ちゃんと需給が一致します。

人の移動には時間がかかりますから、いきなりラッシュ時の山手線の運賃を「際限なく」上げるわけにはいかないでしょう。しかし長期的には「需給が一致するまで際限なく」上げるべきです。具体的には、ラッシュ時運賃の上限価格を「インフレ率+10%」まで、「毎年」上げることを許容する、といった基準が考えられます(一例です)。

趣味や娯楽は、企業の所在地や個人の住居よりずっと「移る」のが容易ですから、私は激変緩和措置の必要を感じません。いきなり市場価格を強制してもいいと思います。
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廉売とする理由が謎。安いからよそが売れない、のではない。人気はゼロサム的なものでないから成り立たないかと。あるものの人気が制限されたらその量が他に流れる、わけでない。単に業界全体が縮小するだけかな。
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id:tick2tack 定価より高値で転売が成立する場合、元の定価は需給の一致する価格よりも安く、それが「廉売」であることは論を待たないと思う。

議論があるとすれば、それが「不当」な廉売かどうか。私は、需給が一致する価格より大幅に安ければ「不当廉売」と考えます。短期的には、「娯楽の世界は、値下げしたって他へ需要が流れるわけでなし」と思われるでしょうが、長期的にはそうとはいえません。

演劇の世界では、宝塚にせよ歌舞伎にせよ劇団四季にせよ、多くの「大手」は価格を上げて需給のバランスを取っています。結果、各々のファン層は「過剰な広がり」を持たないわけです。

するとどうなるか。宝塚に囲い込まれなかった層は、他の何らかの娯楽へ向かうことになります。それが同じ演劇だとは限りません。人によっては、スマホゲームかもしれないし、食べ歩きかもしれない。

その魅力に比して不当に安い価格でサービスを提供する業者がいれば、その業者単体では、(不当廉売をしない場合との相対的な比較において)商売の浮沈に惑わされず気楽にそこそこの儲けを出し続けられるかもしれません。しかしそのとき、必ず周囲で誰かが商売を阻害されており、一国全体の経済は実力よりも縮小してしまいます。

成田空港の着陸料は高くてよい
成田空港の着陸料は高くてよい

発着枠の倍率が高止まりしている成田空港が、着陸料を上げて需給を一致させようとしないせいで、中部空港セントレア(名古屋近郊)や関西空港が割を食い、そしてもちろん成田空港自身も本来得られるはずだった利益を得られずにいる……ということについて書いた記事です。

空港の発着料の事例の方が、私の主張そのものは理解しやすいかもしれません。

成田空港を利用したい人は、高くたって成田を利用したいに決まっています。東京へ用事があるのに、関西空港なんかに降りたらたいへんです。短期的には、そう。

でも、長期的には違うのです。「成田が高い」なら、安い路線は関空やセントレアに集まる。すると「アジアへ向かうならセントレア」みたいな話にもなってくる。国内移動でも、地方都市へ飛ぶならいったん関空を経由する方が安いとか便利だとか、そういう感じになる。

すると、キャパが満杯の羽田や成田では実現できなかった利便性が生じ、航空需要全体が活性化していくことになるのです。そして、空港の魅力が高まることで、じわじわと大阪圏、名古屋圏の魅力も高まっていき、関東への対抗軸へ育っていくことも期待できます。

成田も羽田もこれ以上、滑走路を増やせない。なのに着陸料を「需給の一致する価格」より大幅に安く保ち、日本経済を抑圧しています。「現状でも海外の主要空港より高い」なんてことは、どうだっていいんですね。現状以上に飛行機を降ろす滑走路がないのに価格競争力を高めたって、全然意味がないんです。

むしろ、羽田も成田も市場価格までガーンと値上げすべきなんですね。そうすれば、東京一極集中は、まず航空政策によって、自ずと緩和へ向かいます。

電車賃もそう。通勤ラッシュの電車賃は、混雑率が一定の数値を下回るまで「際限なく」上げるべき。同時に通勤費の支払いを企業に義務付ければ、集中のコストが顕在化し、自ずと人口は分散します。ラッシュ時間帯に社員を通勤させられるのは、バカ高い電車賃を払える生産性の高い企業だけあって、そんな企業は限られているからです。

高くても羽田へ降りたい、成田へ降りたいというのは、東京圏がダンピングして需要を抱えて離さないから。短期的には、値上げで消費者は苦しむでしょうが、長期的には、金のない人(として生産性の低い企業)が運賃を含めた物価の安い地方へ移動する(移動せざるをえなくなる)ことで、「別に羽田とか成田とか、自分には関係ないし。いくら高くてもどうでもいい」となっていくのです。
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はてブで話題の「浜田雅功さんの結果発表」というのがわからず、検索してみたが、完全に初見の映像だった。私には面白さがよくわからなかったが、とにかくこれが世間の人々にとっては「わかって当然の何か」であるらしい。

一覧の74%が「今年どう話題になったのか私には不明な人」であり、数が多すぎて、いちいち調べる気力もわかない。世間の人々は、私とは違うことに関心を持っているのだと痛感する。

顔や名前のわからない人は、予想より少なかった。基本的にニュースは新聞経由で得ているので、著名人の顔がだいたいわからない……つもりだったが、割と分かっていた。あとニュースで見ただけの名前なんてすぐ忘れてしまう……つもりだったが、これも意外と覚えていた。
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g̍2018
第69回裏紅白歌合戦

○元の話題がわかる 36/143(26%)
×元の話題がわからない 106/143(74%)
△名前を知らない/顔がわからない 70/190(37%)

×△総合司会:登坂淳一(元NHKアナウンサー)
×△進行アシスタント:米倉久邦(日大広報)
×白組司会:渡辺謙
×△白組サポーター:飯尾和樹(ずん)
×白組サポーター:川島明(麒麟)
×△白組サポーター:夏木ゆたか
×紅組司会:菊川怜
×紅組サポーター:藤田ニコル
×紅組サポーター:朝日奈央
×△紅組サポーター:丸山桂里奈

×タモリ
○剛力彩芽
○山口達也
○吉澤ひとみ
○山根明
×泰葉
○金足農業高校野球部
×△メガネ先輩
○内田正人前監督・井上前コーチ
○△塚原千恵子・光男夫妻
×沢田研二with金本知憲
○吉田沙保里&栄和人監督
×籠池夫妻
×谷岡郁子
×武田真治・村雨辰剛・小林航太・谷本道哉
×千眼美子・野々村真・森脇健児・林家三平
○安倍晋三・杉田水脈・百田尚樹・桜井よしこ・ケントギルバート・竹田恒泰・△若杉良作新潮45編集長・高須院長・△DHC社長
○片山さつき
×△THE虎舞竜
×△バニラの宣伝トラック
○西城秀樹とちびまる子ちゃんファミリー(CG)
×郷ひろみ・樹木希林(CG)

ガチ相撲裏紅白場所 2018 前半戦
×△川崎麻世   △カイヤ
○△三遊亭好の助  林家正蔵
○ハリルホジッチ  田嶋幸三
○やまもといちろう 川上量生
○ぱいぱいでか美 はあちゅう
○元日馬富士   △貴ノ岩

○場つなぎ:ヘルシェイク矢野

×高畑充希
×△ToshI
○キズナアイ
×△くっきー&△ガリットチュウ福島
×叶美香
×サンドウィッチマン
×△宇垣美里アナ(TBS)&△鷲見玲奈アナ(テレ東)
×△ひょっこりはん
×△坂口杏里
○△米山隆一前新潟県知事
○山尾志桜里&△倉持麟太郎弁護士
○今井絵理子&△橋本健元神戸市議
×五月みどり
×梅宮辰夫
×ポケットビスケッツ
×松岡修造

×ニュース:小山慶一郎

×新しい地図
×のん(能年玲奈)
×出川哲朗
×西内まりや
×△コージー冨田&△あしべ
×△Mr.シャチホコ
×△崎山蒼志
×△眉村ちあき
×△坂上忍
×△滝沢カレン
×片岡鶴太郎(a.k.a.劇団ひとり)
×山田邦子・片岡鶴太郎
×△浜口初枝・京子・アニマル
×志村けん&△大悟(千鳥)
×井森美幸
×マック赤坂
×コウメ太夫
×△桐野安生
×△びっくえんじぇる
×△月亭可朝(CG)
×ニセさんまファミリー(△ほいけんた・△中垣みな・△寛香)
×△郷ひろみの母を騙したオレオレ詐欺犯

ガチ相撲裏紅白場所 2018 後半戦
×△ニューヨーク △パンツマン
×△太田光  △週刊新潮編集長
○△田中英寿日大理事長 △日大会見乱入72歳女性
×△JOY  △キングコング梶原
○渋谷軽トラ転がし集団 吉澤ひとみ運転のアルファード
×ボブ・サップ △大砂嵐
  
×△行司:四十代式守伊之助 

×△青春高校3年C組
○吉本坂46
×△ミラクルひかる
×日村勇紀(バナナマン)
×△島茂子(城島茂)
×田代まさし
×△如月レオン
×△木戸孝之(竹ノ塚のMISIA)
×△畑中葉子
×高嶋政宏

○ハズキルーペ スペシャルプレゼン

×△JAGUAR
×△Emi-chan(マジカルエミちゃん)
×和田アキ子
×米良美一
×吉幾三
×三田佳子
×杉良太郎
×佐々木希
×五木ひろし
×△今井メロ
×北島三郎
×釈由美子
×細川たかし
×吹石一恵
×加山雄三
×Risky(島崎和歌子)
×はっぱ隊
×△日出郎

エンディング
×東日本大震災
○西日本豪雨
○北海道胆振東部地震
×義援金のお願い

×SMAP 

審査員
○岡口基一裁判官
×△羽生ゆずれない
○貴乃花元親方
×ローマ法王
×桜田義孝五輪相
×△岩井勇気(ハライチ)
×△頴娃ガールズ(月曜から夜ふかし)
×△青ヶ島の仙人
×△和歌山のほうの赤ちゃんパンダ
×中田カウス 

×結果発表:浜田雅功

スタッフ
×△副音声解説:濱田祐太郎       
×△(濱田への解説:紺野ぶるま)      
○得点集計:東京医科大学      
○衣装:はれのひ        
×セット建て付け:KYC・レオパレス   
○資金融資:スルガ銀行・きらぼし銀行
×ツイッター担当:クロちゃん       
○タイムキーパー:森喜朗         
×クレーム対応:加藤一二三・蛭子能収・△ジローラモ
○ほか全部:ボランティアのみなさん、外国人研修生のみなさん  
○会場:築地市場解体工事現場内特設会場
○名誉司会:桂歌丸         

選外省略
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そして現在のところ、反則を指示した証拠は十分に集まっていない。ならば警察は、世論におもねって、証拠もないのに送検すべきでない。
<

訂正というか、補足。この「送検」は、「厳重処分の意見を付しての送検」という意味。

被疑者不詳であれ何であれ送検は原則としてするのだから、単に「送検すべきでない」というと、刑事訴訟法違反になってしまう。
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お話、了解しました。釈迦に説法だったようで、どうもすみません。

***

元検察官の著書を読む限りでは、「検察が警察のいいなり」になるのは、なんといっても人手不足が主要因のようです。

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四半世紀で検察官は64%増え、同期間の警察官の16%増を上回っていますが、2千人と25万人の比較ですから、焼け石に水ということなのかと思います。

しかしそもそも検察官が少ないのは、世論が強く増員を求めないからで、消極的か積極的かはともかく「警察万歳司法」は世論の是認するところなのでしょう。
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id:Shin-JPN 刑事訴訟法246条により、犯罪捜査を行ったら、検察から送検不要という指示がない限りは、原則として送検するようです。

コトバンク - お探しのページは見つかりません
>
警察は逮捕した容疑者の身柄や任意で捜査した事件の書類を検察庁に送る際、処罰に関する意見を伝える。起訴を求める「厳重処分」▽検察に判断を委ねる「相当処分」▽厳しい処分を求めない「寛大処分」▽起訴を求めない「しかるべき処分」――の4段階がある。警察の内規「犯罪捜査規範」で定められた手続きだが、拘束力はない。
(2008-09-09 朝日新聞 朝刊 1総合)
<

警察が起訴相当でないと判断したものを、検察が起訴すると決めることは、基本的にはないそうです。ともあれ、送検するということは警察は起訴を求めているのかというと、別にそうではないと。
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https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181113-00000500-san-soci
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>
前監督に罪を問うのは警察じゃなくて裁判官だと自分は思うのだが、支持と書いている人に意見を聞きたい。
<

idmarmot1123 指示の誤記ではなく「支持」と書いているのは私しかいないので、私の意見を聞きたいということだろうと思います。ただ、100字には収まらないので、ハイクでレスします。なお、とくに返信は求めません。最後まで読まなくても構いません。では、始めます。

1.

まず、記事にはこうあります。

>
アメフットのタックルなどスポーツ上の行為は、ルール内であれば正当な業務による行為とされ、相手が負傷しても違法性はない。捜査では、宮川選手に対して「相手を潰せ」などとした指示内容が、正当業務行為の範囲を超えていたかが焦点となった。

 警視庁は捜査1課の殺人事件担当や課内のアメフット経験者、競技場を管轄する調布署員らからなる特別捜査チームを編成。アメフット部の関係者や競技の専門家ら約200人から事情聴取したほか、試合を複数の角度から撮影した動画を解析。記者会見などでの関係者の発言についても裏付け捜査を行った。

 その結果、宮川選手に対し、2人が相手にけがをさせるよう仕向けた言動は確認されなかった。「潰せ」という言葉も「強いタックル」などの意味で一般的に使われており、ルールを逸脱し、相手を負傷させることを意図したものとはいえないと判断した。

 宮川選手は記者会見などで「けがをさせるのが目的で、監督やコーチの指示だった」と説明。内田氏らは「反則やけがをさせることを意図した指示はしていない」と否定していた。
<

宮川選手の記者会見
https://www.sankei.com/affairs/news/180522/afr1805220021-n1.html
https://www.sankei.com/affairs/news/180522/afr1805220022-n1.html
https://www.sankei.com/affairs/news/180522/afr1805220025-n1.html
https://www.sankei.com/affairs/news/180522/afr1805220026-n1.html
https://www.sankei.com/affairs/news/180522/afr1805220027-n1.html
https://www.sankei.com/affairs/news/180522/afr1805220028-n1.html
https://www.sankei.com/affairs/news/180522/afr1805220029-n1.html

結局、明確な「反則」の指示はなかった。宮川選手は、しかし自分はコーチの言葉を反則の指示と受け取った、と述べている。

実際にあったのは「潰せ」という指示だが、それは日常的に使われている言葉であり、せいぜい「全力のタックルによって結果的に相手がケガをしても構わない」という以上の意味ではない。

ひとつの傍証として。日大は関学大より反則が少ないチームだった。同時に、「潰せ」は日頃から出ていた指示だった。思いっきり当たれ、手加減するな、という意図が、大多数の選手には正しく伝わっていたと考えられる。

ではなぜ、反則を行った後でコーチは選手を叱らなかったのか。それは様々な説明が可能だが、私はこう考える。

監督は宮川選手のおとなしいプレーを嫌い、先発から外していた。コーチは選手に積極的なプレーを求めた。結果、やり方は間違ったが、選手は「積極的なプレー」をする姿勢を見せた。こうした場合、「やり方を間違ったことを責める」か、「チャレンジの方向性は合っている」ことを誉めるか、両方の選択肢がある。監督とコーチは、後者を選んだ。

世論は「反則しろ」といって「反則した」から誉めたのだ、という筋読みに偏重しているが、それは唯一無二のシナリオではない。

監督もコーチも、「反則は反則だが、ラグビーに反則はつきもの」程度の認識だったことは、試合直後の発言から明らかだ。しかし試合直後の発言にも、反則を指示したなどという内容は一切ない。そもそも、反則を繰り返し1人退場となって数的不利に陥ったことで、チームは単純に損をしている。

日大は悪質な反則の常習犯かと疑われて過去の事例をずいぶん詮索されたが、立て続けに3回も反則をして早々に選手が退場になるようなケースは、ついぞ発見されなかった。過去にないことが起きたのである。

以上が、事件に対する私の認識。

2.

今回の警察の判断を支持する理由について。

客観的事実として、日大ラグビー部は反則の多いチームではない。悪質タックルの類似例も、内田監督復帰後、なかった。ふつうの反則はあった。しかしそれを問題視すると、全てのチームに問題があったことになる。

「潰せ」が特別な言葉でなかったことは、もとより大勢が証言していた。

宮川選手は「反則しろ」とはいわれなかったことを繰り返し証言したし、他の選手や関係者からも、監督やコーチが「反則しろ」といっていたという類の証言は出てこなかった。積極果敢なプレーによって相手選手がケガをしても構わない、ということは主張していたが、その程度のことは他大学でも指導されていた内容である。

消極的なプレーはチームに不利だが、反則を取られるのもチームに不利。退場は明らかに損であり、宮川選手がやったような悪質タックルは、チームのためにならないことは自明である。そんなことを、監督やコーチが望むとは考えにくい。

ラグビーにつきもののラフプレー自体が罪に問われたのではない。「反則の指示」がもしあったなら、それは傷害罪ではないのか、という話だったのだ。

そして現在のところ、反則を指示した証拠は十分に集まっていない。ならば警察は、世論におもねって、証拠もないのに送検すべきでない。

悪質タックルは現実に起きた。選手が傷害罪で送検されるのは当然だろう。そして選手は、「指示されたのでやった」という認識だった。しかし、それが勘違い・誤解だった可能性が、相当にある。

不起訴になっても世間は監督とコーチが反則を指示したんだという考えを変えないだろうし、大学内での処分も覆るまい。しかし、司法権力が、無辜を罪に問うてはなるまい。結果的に裁判で無罪になればいいというものではない。起訴され、刑事裁判にかけられるだけで十分に、市民の生活は破壊されてしまう。人権を制限する権力の行使には、厳しい制約が必要だ。

検察は、疑いではなく確信をもって起訴しなくてはならぬ。確信をもって起訴された案件の中にさえ無罪の事案があり、だから最後の砦として裁判所が慎重にも慎重を期して判断をする……そう考えるべきだ。

疑わしいという程度で起訴して、裁判所に判断を投げるなどという軽薄な司法のまかり通る社会で、市民は安心して暮らせないだろう。
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返信どもです! 私もいろいろなことで似た悩みを経験していまして。

私が魚を片面ずつひっくり返して食べるのは、「食べ方キレイ、マナーもばっちり」なキャラ「ではありません」という自己演出も込みだったりします。意図的に用意した欠点なら、そこを突かれても精神的ダメージが小さいので……。

ようするに開き直りなんですが、サンマの内臓を食べるかどうかも、「自分で食べないと決める」ことで、きっとラクになります。

ただ、魚をきれいに食べたいというのは、人に褒められたことがエスカレートの切っ掛けだとしても、そもそもはkidspongさんご自身の中から出てきた欲求ですよね。なので、

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骨をツルーっといかに原型を留めたままキレイに身から外すかというのに命をかけています
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とのことでもありますし、魚を半面ずつひっくり返して食べるやり方では、「大切な何かを失った」という感覚になり、魚を食べるのが楽しくなくなってしまうかもしれません。(逆に全然平気で、常識の殻を破って世界が広がる可能性も?)

私の提案は、ひとつの「仕切り直し」案に過ぎません。ぜひいろいろチャレンジしていただいて、自分にピッタリなベストポジションを探ってみてください!
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ここ数年で唯一褒められたのが「綺麗に魚を食べるね」で、以来「魚綺麗に食べるキャラ」として生きると決めた手前、内臓も残さず食べるようにしてるが正直苦くて辛い。自ら設定したキャラに殺されかけてる。助けて
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id:kidspong もし本当にお悩みであれば、こうしてみてください。

1.黙って食べるのをやめる。
2.人にそのことを指摘されたら、「じつは最近、味覚が変わってきてしまいまして。以前は好きだったんですけど、苦手になってしまったんです」と話す。
3.内臓を残しつつ、きれいに食べる。

他人はそれほど自分のことなど気にしていないので、実際には何も指摘されないと思います。

なお「きれいに食べる」については、ていねいに身と骨を分けて食べる派と、全部食べてしまうので、食べ終わりの状態(だけ)がキレイ派があります。もし後者の方だった場合、内臓を残しつつ「きれいに食べる」には、多少の修練が必要になります。

サンマの場合、難関は腹部ですよね。骨と内臓をきれいに残し、身だけ食べるためには、箸で腹膜を突き破らないことが重要。あと、マナー違反とされることは気にせず、片面を食べたら、裏返して反対面を食べるようにしてください。裏返さずに背骨を取って反対面まで食べ進むやり方だと、内蔵を残しつつきれいに食べる難易度が大幅に上昇してしまいます。

食べて消えてしまうものは割とどうでもよく、皿に残すものをいかに見苦しくない形にするか、です。魚の食べ方が汚いというのは、骨に身の切れ端が残ることが主な原因であって、身を食べ尽くして骨だけを残せばスッキリします。内蔵の場合、ゴチャゴチャしたものを見せるとどうにもならないので、骨と膜に包まれた状態をきれいに残してください。
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はてなブックマークの検索が全然使えない。

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↑のブコメを呼び出したくて、マイブックマークから「高速道路」「交通事故」「バス事故」「中央分離帯」「費用対効果」などいろいろ言葉を変えて検索したけど結果は「0件」。

そんなバカなと思いGoogleで「"deztecjp" 事故 高速道路」と検索したらパッと出ました。最初からこうすればよかった、と。

正直、こんなことなら、独自の検索など廃止して、Google検索のフォームを置いておいてくれる方がマシではないかと思います。

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こう言うので値がつり上がっていくことを「市場原理による価格決定」とは言わないんだけど支持する人居るんだよなあ。はてなとかにも/仮に最初から倍の値段で売り出しても買い占められてそれより上の値段になるだけ
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id:komamix 元の記事は、仮押えによってチケット供給を絞って値段を釣り上げ、ノーリスクで転売する話なので、"「市場原理による価格決定」とは言わない"ことに同意しますが、後半は誤りです。

需要曲線は、少量なら高値で売れますが、より多くを売るためには価格を下げなければならないことを示しています。

多くのチケットは、大半をファンが購入しており、転売市場には一部しか出回らないので、定価を大きく超える価格で売れるのです。

はてブでよくある誤解とは逆に、1次購入者に占める転売業者の割合が増えれば増えるほど、転売価格は下がります。転売市場へのチケットの供給が潤沢になるからです。需要曲線を外れて「高値で大勢に売る」ことはできないのです。

定価が均衡価格と一致していても、買い占めによって利益を得られる可能性はあります。例えば時間差の利用が考えられます。早くにチケットを欲しがるのは熱心なファンが多い……とすれば、最初は定価より高く売っても買い手がつくでしょう。しかし定価が均衡価格と一致している場合、結局、公演の直前になれば定価と同じ価格でなければチケットは売れなくなります。最初は高値でとびついたファンも、次第に価格が下がることを学習すれば、何度も高値で買ったりはしません。

ですから、定価が均衡価格と一致している場合、買い占めによって実現可能な利益は僅かであって、通常は手間に見合いません。

高値で買ってもいいと思う人も、安く買えるなら安く買います。売り手には、買い手の需要を読み取って、買い手毎に異なる価格を提示する方法が、ほとんどありません。売りたい数が増えれば、それだけの数をさばける値段まで下げて売るしかないのです。

http://h.hatena.ne.jp/deztecjp/81795889175030360
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H30 障害者白書より

内訳の合計が白書の数字と少し合わない理由は不明。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/d/deztecjp/20180923/20180923045601.png
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細谷Pが「たつき監督の2期を見たいと製作委員会一同が思っていた。その方がビジネス的にもうまくいく」って発言してるんだよ→ https://twitter.com/5biohazard/status/947452122185871360/video/1 製作委員会以外で権利行使できるのは誰?w
<

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kamm 少なくとも委員会の中で続投を望む声の方が多数という風に読み取れるとかと。ただ「つきつめると誰が悪いというような個人攻撃になる」という旨の発言が続いてますね

mohno id:deztecjp ←そこに矛盾がある、という指摘ではなく、委員会の中で「経済的成功を超えた判断」をしたい存在って“会社”じゃないですよね、という意味です。/「矛盾がある」と書いてあるのはおかしいなと思いました。

deztecjp id:mohno 動画で細谷さんは、何らかの理由で製作体制の変更を主張する意見が委員会の合議の中で出たことを明言していますよね。一作品の内容や経済的成功を超えた判断だとすれば、とくに矛盾はないかと。
<

返信ありがとうございます。

私は「一作品の内容や経済的成功を超えた判断」と書きました。「一作品の」がポイントです。mohnoさんは、これは営利企業の発想ではないとお考えのようですが、個人的にはむしろ、大企業的な発想だと思っています。

私はメーカー勤務ですが、昔は小ロットの製品と大ロットの製品とでは扱いが違い、小ロットの製品については、よくいえば「柔軟」な、悪くいえば「ルール違反だらけ」の対応をしていました。しかし現在では全て統一の設計・製造プロセスと品質基準を適用しています。

全生産数が1台や2台の製品にトータルで1万台以上作る製品と同じルールを適用するのは不合理です。しかし社内で複数のルールを管理運用しつつルール違反を撲滅するのは人的リソースから不可能であり、小ロット製品におけるオーバーヘッドは「諦める」ことにしています。

同様のことがけものフレンズの製作委員会の中でも起きうると、私は思います。たつき監督の作る2期を見たいし、製作体制を変えない方が経済的成功も見込める、しかしそうであっても何かしら看過できない問題があり、ここで「けものフレンズは例外とする」わけにはいかない、と。

非常に大きな会社であればあるほど、ルール違反の間接的影響を最大限に見積もったとき、個別の商品の成功・失敗は相対的に重要ではなくなっていく。

もちろん、個人の信念ひとつでどんな不合理な主張も自由にできる個人の権利者が、経済的な損得は度外視で個人的なこだわりに基づく反対意見を述べた、といった予想も成り立ちます。私はそれを否定していません。

ただ、営利企業がビジネス的成功を諦めてまで製作体制の変更を主張するのはありえない、という認識(ですよね?)には同意できません。
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返信ありがとうございます。

子の犯罪に関して、親がマスコミにコメントを出すなどして「お詫び」をしなければならないのか、人びとが犯罪者の親を「責める」のが妥当か、という点について、見解の相違はないと考えています。

肝心な点で一致しつつも、私とakikonianさんの見解には相違があるわけですが、その多くは言葉の定義の問題のように思いました。(概ね私の方が「独自」の言葉の定義をしています。私が「親に責任なし」というのは、「責任」という言葉を狭く狭く定義しているためです)

akikonianさんはおそらく、愛情に基づき自らに課す責務を広く「責任」と表現されているので、「親に責任なし」派の主張を「冷淡」と感じられるのではないかと思いました。私としては、そうした愛情の所産まで否定する意図はありません。

私は実のところ、そうした責務も「背負い過ぎないように」と主張する人間であって、「冷たい」のではありますが、「ゼロを基本に」とは考えていません。敢えていうとしても、「全て放擲しゼロにしたい」方がいたとして、「私は責めない」くらいが私のスタンスです。

なお、愛情に起因するあれこれをも「責任」と呼ぶならば、その愛情がお母様、お父様の中にある以上、akikonianさんが一人で「責任を取る」ことができないのは当然だと思います。
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自分の親を見ていると法的責任はなくても社会的責任はいつまでもついて回ると思ってたけど世の中はそうでもないのかな。子どもが成人したら責任という名のつくものは全て放棄されているんだろうか。
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他人がどうこうではなく、自分がどうありたいか、どんな社会を望むのか、だと思います。私は子の犯罪で親に責任を負わすことに明確に反対。社員の私的な犯罪で勤務先の責任を問うことも明確に反対。
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ご回答ありがとうございます。社会的責任と道義的責任、法的責任は全く違うと思うのですがその点についてはいかがでしょうか。ちなみに私は親に責任をとって何かしろとは思っていません。責める気もないです
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id:akikonian 最初のコメントに関して、あらためてレスするところから始めさせてください。

「世の中では」というならば、「子どもが成人しても親の社会的責任はついて回る」のが現状でしょう。マスコミが親のコメントを求めるのも、その表れです。

しかし同時に、「自分は親を責任から解放したい」と考える人もいます。まず私がそうですし、はてブには同様の方がそこそこいるようですね。もちろん、妥当と考える責任解放の度合いは、人それぞれです。

私は、「成人した子の犯罪に関して親は100%無責任でOK」と考えています。子がどんな犯罪をしようと、犯罪そのものに何の関与もしていないなら、親の責任はゼロ。社会的責任も、道義的責任もゼロ。私自身は一切、責任を問わないし、他人が責任を問うことも支持しません。赤の他人と同じ扱いです。

親自身が気に病むことについては、何もいいません。「気にしないでいいよ」なんて、いうつもりはない。個人が個人の価値観において自分自身を罰するのは個人の自由であって、人がどうこう口出しすべきでない。結果、例えば自殺したとしても、そこに社会的圧力などが一切なく、純粋な自罰であるならば、私はお節介な介入を支持しません。当人に迷いがあり、他人の意見を求めているなら、私は「そもそも私にはあなたを責める気持ちなどありません」と話しますが。

「社会的責任」は、いわゆるCSRおよびその派生領域に話を限定すべきだと私は考えます。その前提を踏まえて、「個人の行った私的な犯罪に関して、周囲の誰にも社会的責任は存在しない」と私は主張します。「社会的責任」という言葉の語義を拡散させ、個人の私的な犯罪を語る際に持ち出すのは不適切だと考えます。

「道義的責任」は、違法ではないが不道徳ないし正義に反する行いに関するものだと私は認識しています。子が犯罪者になったこと、それ自体が親の不道徳や正義に反する行いを証明するものではなく、子の罪に関して親に道義的責任があると短絡することを、私は支持しません。

犯罪の遠因に、親の不道徳な行い、正義に反する行為があったと推認されるとしても、結果責任を問うことは否定します。その不道徳は、親の行為自体の不道徳の程度に比例して批判されるべきで、たまたま子が大きな犯罪を起こした事実によって非難の程度を高めるのは不合理かつ不公平だと考えます。

宝くじに当たるのが善性の証明でないように、子が罪を犯す不運が悪性の証明にはならない。私はそのように思います。

私が以上のように考えるのは、私と弟は同じ親から生まれて顔かたちも似ているのに、性格も価値観も全く異なる人間だからです。親は子を幸福にはできても、人間そのものを大きく変えることはできないのだと、体験的には痛感しています。
deztecjp

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kido_ari 二度と会わないであろう人にはヒヨコ鑑定士を詐称してる。一度本物に会って見破られてしまったけど、そのとき色々教えてもらったので、それ以来、より上手く嘘がつけるようになりました。[増田][ネタ][創作実話]
boqfejl 関係ないけど、ひよこ鑑定士を騙るのってつまらなくないですか。嘘だとわかったら「こいつとてつもなくセンスなくて気持ち悪いな」と率直に思うだろうな。
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boqfejl ひよこ鑑定士へのスターのつき方を見て久々に「うわぁ…」と感じたな。
deztecjp id:boqfejl 横レスですけど、センスあるとか素敵な人だとか思われるより、ダサくてつまらないと思われる方がよっぽどマシだという価値観もありますので(私はそっち側)。
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boqfejl id:deztecjp なるほど。しかし私の主観ですがこれはどちらかというと「ユーモアに富んでてセンスある」と評価をされているように感じたので腐しました。自分を卑下するチョイスとしてひよこ鑑定士は無いとも思います。
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boqfejl id:deztecjp しつこくてすみませんが、私もダサいと思われる方がマシと思ってる側です。ただ「ひよこ鑑定士」という「ネタ」が大きく評価されてるブコメ欄に疑問を抱いたので「それほどでもない」と意見を表明しました

返信ありがとうございます。

「人気ブコメにはカウンターがある方がいい」と、私も思います。多数意見の専制は望みません。様々な意見が場に出ている方が、ホッとします。

IDコール抜きで論評されている方にIDコールで意見することについては、これで委縮させてしまったら、怖がらせてしまったらどうしよう、どうしようもない、悪い結果になったらそれでおしまいだ、自由闊達に意見が提出される世界を望みながら、自らそれを阻害するのか、といった逡巡が私の中にもあります。今回はこうして返信をいただけて、とりあえずは胸をなでおろしましたが、それでも「面倒なことに巻き込まれてしまった」「今後は発言を控えよう」といった感覚は、やはり多かれ少なかれ生じてしまったかと思います。

ただ、コメンター同士でやりとりできることも、自由闊達な意見提出の場の条件だとも思っていて、ときにいくらかのリスクをとってでも一歩踏み出すことに意義はあると、私は認識しています。とはいえそれは私の一方的な認識であり、「私にはこのような異論があります(が、あなたの主張とは併存可能であって、あなたの意見を否定するものではありません)」という穏当な内容とはいえ、いきなりIDコールでいいのかどうか、それは身勝手ではないか、といった点について、私も悩んでいます。

***

件のブコメには「創作実話」タグが追記されました(現時点ではGoogleキャッシュとの比較で「追記」されたことを確認できます)。

もともと「ネタ」タグはありましたが、「創作実話」タグの追記で、オヤジギャグ的性格はいっそう明確になったと思う。つまり、ブコメという空間におけるジョークとして、「ひよこ鑑定士を詐称してる」とコメントされているわけであって、リアルにそう詐称しているわけではないのです。

以前からkido_ariさんは、ダジャレをよく投稿されています。ひよこ鑑定士も、その流れの中にあるわけです。「ジョークだとしても面白くない」と思う人がいるのは不思議ではありませんが、bogfeilさんが「嘘だとわかったら」云々と述べられていた部分については、懸念は当たらないように思いました。

ガチで「ひよこ鑑定士を詐称してる」のと、「二度と会わないであろう人にはヒヨコ鑑定士を詐称してる」というジョーク、文字では違いがよくわかりませんが、体面で話を聞いたら、印象は大きく異なるはずです。

私には、bogfeilさんにブコメの訂正や変更を求める意図は全くありません。コメントしたときの気持ち、考えたことのスナップショットとして、そのまま残しておいていただければと思いますし、古いブコメを新しい感想でいちいち訂正して回るなんてこと、「人に不可能を押し付ける」の類でしょう。

それでも、私はどうしてbogfeilさんのようには感じなかったのか、そのひとつの答えが、「創作実話」タグによって明確になったように感じられ、この点をお伝えしたいと思いました。私は最初から、「リアルにひよこ鑑定士を詐称する人」を想像していませんでした。「ネタ」タグは目に入っていませんでしたが、自然と「冗談のひとつ」として読んでいたのです。
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「積極的には支持しない」の人達の、どうしても黙ってられない気持ちって興味深い(本文と関係ない)
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id:yoyoprofane 好きなお店がなくなるのを惜しんだり、オーナーの判断を「間違ってる!」とくさす気持ちは、とてもよくわかる。そういう発言をする自由は、私だって積極的に擁護したい。

だけど、そんな私だって別の場面では、正当な対価を支払って自分の自由にできる権利を得た物事に対して、他人からぐちゃぐちゃいわれることにムカつく経験をたくさんしているわけです。

うるせーよ、文句があるなら自分で権利を勝ち取って、その理想を実現すればいい。何の対価も支払わずに、口先介入だけで自分の理想を他人に押し付けて実現しようなんて、ムシのいいこと考えてるんじゃないよ、とかね、何度もそう思う場面があった。

そういうのって、表面上の言葉というより、その背後にある考えというか、態度が重要なんです。「その決断は間違っていると思う」と主張すること自体はいい。問題は「いま自分が決定権を持つ立場にないこと」に関する謙虚さのようなものがあるかどうか。

「気持ちはわかる。でも積極的には支持しない」てのは、そういうこと。言論の自由は大事で、口をふさぐのは間違いだと思ってる。だけど、カネを出さずに口だけ出す人には、わきまえるべき態度ってものもあるんじゃないの?と。

新宿ボンベイが閉店して和食レストランにかえて成功するか。個人的には、成功しないと思う。オーナーは愚かな判断をしたな、と思ってはいる。だけど、私には借金して店を買い取るだけの胆力も、様々な実力もない。オーナーには、それがある。

世評の悪い企業で、山ほど失敗も重ねている。それでも、オーナー側は自分の意思で決断できるだけの実力を得て、リスクを背負った。私との決定的な差だ。

そのことに、私は一定の敬意を払う。

まあ、記事を見ても、「一定の敬意」を有している方が大半ではあります。ありますが、一部にはそのようには見えない方もいる。

私は、個人がただ気持ちを吐露することを決して否定しない、消極的には支持する。ましてや、その主張自体には、私も同感ではある。わざわざリスクを取って業態転換することないじゃないか、利益が出ているなら文化事業として続けてくれてもいいだろうに、大企業が単純に利益を追求するだけでいいのか、社会貢献も考えていいのでは、とか。

だけど、口先介入で世界を変えようとすることには、嫌悪感がある。自分の主張が通るなら、なんだっていいとは思わない。いま目先の自分の主張が踏み潰されるとしても、いまオーナーが勝ち取った「自分の決断を押し通す権利」を擁護しなかったら、究極的に、自分は不幸になるという確信がある。

何せ私は、少数派になりやすい人間ですから。「みんな」とは異なる判断をすることが、多い人間ですから。
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よかったら探し当てたウエストポーチが どんなものなか教えてください
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近所のスーパーで買いました。メーカーや型番は不明。実際は昔からある商品なのかもしれませんが、私の視界に入るところにウェストポーチ売り場が大きく作られ、そこに並ぶたくさんの商品のひとつとして私の前に現れたことでやっと買えたので、これはブームの影響といっていいだろうと思っています。

私が小学生の頃からウェストポーチに求めていた機能は以下の通りです。

1.片手でジッパーを開けられる。
2.ジッパーを開ける際にウェストポーチ自体が動かない。
3.薄くて小さい。
4.長財布が入るサイズ。
5.一定の防水性能がある。(主に耐汗性)

1.2.はジッパーの作りの良さと、ベルトの摩擦力が適度に大きいことに関わります。マジックテープやボタン式でもいいのですが、メインポケットがジッパーでないウェストポーチというのは本当に少なくて。

3.4.は意外と両立が難しい。長財布というのが、じつはかなり大きいんですね。iPodあたりからコンパクトなものは増えたのですが、スマホなら入るけど財布は入らないものが多くて。財布も入るウェストポーチの大半が、私の感覚ではゴテゴテとして大きすぎるのでした。(なお小学生の時点から長財布といっていたわけではなく、当時は手帳とかペンとかでした)

5.は使ってみないと最終判断は難しいですね。とりあえず何ら配慮もなさそうなものはNG判断です。
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松本麗華さんの主張、つまり被告(当時)の病状に関する論点は裁判で却下されたものですが、裁判所が認めなかった主張を繰り返すのは感情論に過ぎない、ということは全然なくて、だから確定死刑囚の再審請求が数十年も続いたりするわけです。

現状、公的には松本智津夫裁判に法律上の瑕疵があったとは認められていない。でも過去には、いったんは法的に効力があると認められた証拠が、ずっと時間が経ってから一転して却下された事例もありますし、松本麗華さんが今されているような主張を繰り返すことが、即ち法の軽視だなんて、私は思いません。

ただ、新証拠がなければ従来通り却下されるだけでしょうし、松本麗華さん側はもう松本死刑囚の健康状態を自分たちの納得いくまで調査することなど不可能であって、新証拠が仮に出てくるとしたら司法関係者の証言か、以下に示すようなケースしかないと思う。

松本被告(当時)の状態は、様々な立場の人が法廷で見て「治療が必要なのでは?」と思うようなものだった。これは事実です。裁判所は鑑定の結果、裁判をこのまま続けられると判断したけれど、異論はあったわけです。

話としては、DNA鑑定のやり直しを求めるのと似ています。DNA鑑定が不服だという話につきあって、同じ鑑定を繰り返したって時間とカネの無駄なのは明らかだから、基本的には却下されるわけですけど、別の現在進行形の裁判で同じ先生の鑑定がいくつかひっくり返ったら、こっちもやり直せという話になったりする。松本被告(当時)を鑑定した先生が、別の事件で鑑定に疑義がついてひっくり返ったりすると、松本智津夫裁判の鑑定も間違っていたんじゃないかという話が再燃するんじゃないでしょうか。

とはいえ、所詮は人間がその能力の限界の中で人を裁くわけで、誰もケチのつけようのない裁判など不可能。松本さんがしているのも、死刑執行を先延ばしにするための時間稼ぎの主張だ、という見方もできるでしょう。最近、再審請求中の死刑囚が刑を執行され、激怒している方もいましたが、そのケースでは被告が無罪を主張していたわけでもなく、再審請求中だからといって死刑を執行してはいけないと単純に考える方が危ないと思いました。

私個人は、松本死刑囚がいま死刑執行されても、とくに批判しない。法律遵守というなら、法律通りさっさと執行するか、空文化している現行法を早く改正すべきでしょう。

でも、松本梨香さんの主張を、tetora2さんのようには批判しません。

私はいま、再審請求申請中の確定囚の方の支援はしていないし、目下とくに注目している再審請求もありません。ただ、過去にはいくつか支持してきた事例もあります。

松本麗華さんの主張は、そうした事例と明確に区別できる要素が、私には見当たりません。

裁判所が、正規の手続きに則って鑑定をしたんだから、その鑑定は正しいんだ、不満があるなら誰もが納得できるだけの証拠を出せ、なんていったら、どんな再審請求も成り立たないですよ。

言葉の上滑りはあると思う。だけどそれも、他の再審請求事案と比べて、とくに過激ではない。

「自然人に対して根拠無く行えば名誉毀損の疑いが極めて強い発言です。」

これは私も同意しますし、それがよいことだとは思いません。でも、これを咎めだてして、こういうモノの言い方は法の遵守を求めることと両立し得ないといったら、他の再審請求事案も軒並みアウトになる。

こういうことは公正・公平でないといけない。私は、過去にいくつかの再審請求について僅かな支援や応援をしてきましたから、tetora2さんのような基準で判断することはできません。

再審請求をする側は、しばしば裁判所や警察や検察を散々罵っていました。悪意なき過誤による冤罪ではなく、意図的な冤罪だとまで主張してきた。そうまで他者の悪意を吹聴する根拠があるかといえば、私の見てきた限りでは、なかったですね。「私には、そうとしか思えない」以上の理由はない。

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娘さんが「お父さんは悪い人じゃない、何かの間違いだ」と言うのなら止めはしません。
又は「裁判のここに問題があるので再審請求したい」とだけ発言しているのならそれも一つの意見として尊重します(同意はしませんが)
しかし「お父さんは優しかった、裁判所は感情論で判断して精神鑑定を予断を持って行った、心神喪失の父は無罪だ」と主張するなら話は別です。
自分は感情論を振りかざす、相手を根拠無く貶める。根拠無く相手を貶める感情的な自分を差し置いて、法に則った処置を求める。
私はダブルスタンダードだと思いますね。
<

なるほど、と思いました。tetora2さんの基準は、理解したつもりです。

私は同意しませんが、tetora2さんの基準が、他のあらゆる再審請求事案にも公平に適用されるなら、これ以上、私としては申し述べたいことはありません。

以下は、同じ内容の繰り返しです。

既に述べた通り、「感情論の部分は差っ引いても残る主張がある」なら、感情論とは腑分けして、その部分の主張に私は耳を傾けます。感情的な言葉で構成され、様々な問題を含む発言だとしても、その主張の全体を「感情論だ」として切り捨てることはしません。

裁判所が治療は不要だと鑑定しても、「納得できない。再鑑定すべきだ」というのは法的な主張だと、私は認めます。過去の様々な事件におけるDNA鑑定への疑義申立と、同様に考えているわけです。ただ、それは法的に無意味な主張ではないけれど、いったん正当な手続きを経て鑑定はなされたわけであって、基本的にはスルーされて当然。しかしそれは、「感情論だ」という切り捨てではなく、「論拠が弱い」という判断によらねばならないと思う。

……とはいえ、世間では「感情的な物言い」であることをもって「感情論」と全体を判断することが、確かに多い。私も、時にそういう判断に流されている。しかし私はそのような判断を本来的には支持しないのであって、以後いっそう、自分がそうした判断をしてしまってはいないか、気をつけていきたい。
deztecjp

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麻原彰晃死刑囚の三女・"アーチャリー"松本麗華さんが父の治療を訴え続ける理由 | AbemaTIMES
https://abematimes.com/posts/3863346

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>
tetora2 裁判所が出した判決を感情論と評価するのは違和感がある。法に則って治療をと言うのであれば、裁判所が出した判決を尊重するべきではないのか。法を片方で軽視し、片方で都合よく使う姿勢には共感出来ない。
deztecjp id:tetora2 松本さんは、父の受けた裁判は感情論に流されて法から外れたものだったと主張されているわけです。不当な裁判は当然に無効だという話で、矛盾はないと思いますね。同意するかどうかはまた別問題として。
<

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>
tetora2 自身も娘という立場を使った感情論を展開しているわけで、感情論で法を外れた判決が出たとの主張は筋が悪いですね。では冷静な判断が出来ないお前は黙ってろと言われて終わりです。
deztecjp 私が書いたのは、彼女の主張に「矛盾はない」ということです。「法を外れた裁判による判決」を法順守の観点から否定しているので。「法を外れた裁判」という認識に異論はあれど、「矛盾」という批判は不当。
<

tetora2さんが「自分から見ると矛盾している」のを「矛盾」と批判する流儀なら、仕方ないですけど、私はなるべく、「当人の主張そのものが矛盾している」場合に限って「矛盾」と批判するようにしています。

松本麗華さんは、松本智津夫さんは本来必要な治療を受けることがかなわず、正当な裁判を受けることができなかったと認識されているわけです。だから、判決にも不服がある。きちんと治療を受けて裁判を受け直しても、結論は同じ死刑かも知れない。だけど、正当な裁判の結果なら受け入れる、ということもいっている。

この主張に、私の定義でいう「矛盾」はありません。法を遵守せよ、という一貫した主張になっています。「法から外れた裁判は認めない。法律に則り父を治療せよ」というわけです。

ここまで書いたところでレスをいただいたので。

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>
「法を外れた」だけなら批判などしませんよ。自身が娘の立場で感情論を振りかざしながら、判決には法を外れた感情論と批判する。いわゆるダブルスタンダードです。ちなみに私は矛盾とは一言も書いていません
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字数の都合で、一番短く書ける「矛盾」を選択したのです。しかし以下では「ダブルスタンダード」と書くことにしましょうか。

松本さんは、自分の主張に自分の感情が乗っていることを否定していません。けれども、その感情によって自分の主張が歪められているとは認識されていない。感情を排しても「松本智津夫裁判は法から外れた不当なものだった」という点に変わりはないと、松本さんは認識されていると思う。

ある主張が一面において感情論によって支持されているとしても、その主張全体が「感情論に過ぎない」かどうかは、別問題であるわけです。

日本の有権者の多数派は、松本智津夫裁判に法的正当性を認めています。私も、法的正当性がないとまではいえないと思い、消極的にであれ、正当性を認める一人です。しかしあれが不当な裁判だったという主張は、これまで数多の法曹からも提出されてきたものです。

松本さんの「あの裁判は不当だった。父の治療を行い、裁判をやり直すべき」という主張は、もちろん娘としての感情をひとつのベースとしているわけです。けれども、松本さんが最も強く押し出しているのは、「法律通りにやるべき」という主張であり、これは松本さんの感情とは別に、十分な強さを持っています。

tetora2さんは「法を片方で軽視し、片方で都合よく使う姿勢」とおっしゃるけれども、「法から外れた不当な裁判に基づく不当な判決」という批判は、法を重視するからこそ出てくる主張なのです。松本智津夫裁判への批判が主に法曹から出てきたのは、まさにそういうことであって。

例えば「取って付けたような理屈。その主張の根っこにあるもの、本質は感情論だ。自分の気持ちを満たすために、法律を道具として持ち出しているに過ぎない」と批判するなら、わからないでもないのですが、松本さんが「法を片方で軽視し」ているという批判は、根拠を欠いていると思う。

松本さんが松本智津夫裁判を不当とみなすのは感情で目が曇っているからにすぎず、松本智津夫裁判は全く正当なものであって、その裁判、その判決を受け入れないのは法律の軽視である……とtetora2さんが考えることについては、私としてはとくに何もいいたいことはありません。

ただ、それはtetora2さんの解釈というか、世界観というか、tetora2さんの主張の前提に過ぎないのであって、松本さんの主張の前提ではない。

私の流儀では、ダブルスタンダードというのは、当人の主張自体が一貫していないことをいう。あっちとこっちでいっていることが違うではないか、と。

でも松本さんはどうですか。「法を守れ」と一貫して主張されているではありませんか。

それに対して、ダブルスタンダードだといって批判するのは、無理があるとは思いませんか?

結局、「松本智津夫裁判は正当だったのか不当だったのか」が対立点なのです。感情VS法律ではない。少なくとも言葉の上では、松本さんは法律重視の姿勢を明確にしているのです。
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オラフの正体に注意して『アナ雪』を読み解く
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別にリンク先の記事に不満はない。「ああ、なるほど」と。

個人的に気になるのは、記事への一部の反応。というか、映画が公開された当時からのことなんだけど。

私や、私の身近な人々にとって、『アナと雪の女王』で最も感動したのは、エルサが雪の女王となったシーン。その先の物語も悪くはなかったけど、「ふーん、平凡なところに落ち着いちゃうんだな」的な。

私(たち)がさして感心しなかったところを、あれこれ読み解いて感動する人がいるのは、それはそれでいい。そこに文句はない。

ただ、これはリンク先の記事自体にはそういう要素はないのだけれど、エルサが社会に背を向けて雪の女王となったシーンでこっちは感動してるのに、なんかそれをバカにするような意見もあって。

それも言論の自由だからいいんですけどね。自由だっていうなら、それに対して「ムカつくなー」というのも自由なんでね。

元の映画は、たしかにエルサが社会から離れて妖仙の類になった先も続いて、「やっぱそれじゃあかんでしょう」という話を展開するのだけれど、それは脚本家の都合なんであって。観客の中では後半の物語はスルーして、「最初の Let it go で大感動した!」といっていいと思うんだよね。

いや、誰もダメだなんていってないんだから被害妄想的な話なんだけど。

でもなんか脚本に引きずられるっていうんですか、「映画はその先を描いてる」ことを理由に、前半で感動してそこに留まってる人は「映画を読み解けてない」的な意見とか、これまで何度も見聞きしてきたので。物語を全部理解していれば、最初の Let it go が最大の感動であるはずがない、みたいなね、そういうの。

違うんだよなー。これまで、社会に背を向けて「好き勝手に生きる!」みたいなのを描いた作品自体はいっぱいあるんだけど、どれも『アナ雪』ほど美しく、それを本気で肯定するかのような描写にはしてくれなかった。私の中では、あの場面で『アナ雪』は「完」なのだ。

後半の物語は「世間様との折り合いも適当に付けておかないとね」と了解するが、自分にとっては重要でない。私の中では、夢と希望を見事に疑似体験させてくれたサイコーな前半に尽きる。

なので、『アナ雪』は私にとっては「ありのままの自分になる話」だ。その先は世間とのしがらみによる蛇足に過ぎず、どうでもよい。それをだね、『アナ雪』を「ありのままの自分になる話」だと解釈する人は「わかってない」とかいわれると(リンク先記事のことではない)、「わかったうえで、あえてこういってるんだよ、逆にそれくらいわかれよ」と反論したくなる。

あんたら、脚本家の奴隷かよ、と。物語をどこで「完」とするかくらい、自分で決めたらいい。『まどマギ』とかもね、私は劇場版の主張を支持しないので、テレビ版で「完」だ。『ダークナイト』も、『ダークナイト ライジング』は私にとって蛇足。なかったことにする。物語が先へ進んだら、より正しい方向へ考えも進んでいるというわけじゃない。

シリーズ物の映画で、「2作目まで支持」とかがあるように、1つの映画の中でも「48分までは支持」とか、そういうのでいいと思う。
deztecjp

id:deztecjp

http://h.hatena.ne.jp/deztecjp/316608380790742754
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詳しい。「差別は悪」且つ「許容できる悪もある」という形式。「していい差別」と「許容できる差別」の違いはなに?レッテルの貼り方の違いに見える。/ 結局、根本である差別の判断基準が示されていない。
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id:tick2tack これで回答になるかわかりませんが、私は「許容」の線引きより、「許容した差別」との向き合い方に関心があるわけです。

「していい差別」と「許容できる差別」は、通常の日本語としては同義ですが、説明の都合上、当該記事にて独自の語義を与えました。

あらためて書けば、「していい差別」とは、「後ろめたさを感じなくてよい差別」です。「より重大な問題に対処するため」という大義名分のもとで行われる「していい差別」に対しては、「差別ではある」という指摘すら不当な批判であり、重大な問題の解決を妨げる悪とみなされる。「正しい行いを批判するのは不当だ」という。

私は「していい差別」などない、と主張しました。人間の能力には限界があるため、「より重大な問題に対処するため」に、やむえを得ず最小限の差別を許容する必要は認めますが、「目的が正しいので、この差別も正しい」とまでは、私は認めません。あくまでも必要「悪」であり、常に「差別の悪」を意識し、「より小さな悪で同じ目的を達成できないか」と考え続けるべきだと思うのです。

これは、割と明確な違いだと思います。

女性専用車両はあくまでも必要「悪」であって「差別」批判をきちんと受け止め、より悪を小さくできないか、常に意識しつつ運用していくべき(だが、そうできるほど人間は優秀じゃない。でも、「べきだ」という気持ちがなければ、まず始まらない)。対して積極的推進派は、「正しい方策にケチをつけるな」という。被害者の気持ちを考えろとか何とか。被害者の気持ちがどうあれ、「差別は差別」であることには何ら変わりがないと私は思うし、目的が正しくとも手段が含む「悪」から目をそらしていい理由などないと私は考えるわけですが。

>
例えば「憲法は合理的区別を認めている」の解釈って、大きく2つあるわけです。私は「憲法は現実的に人間の限界を考えて一定の悪を許容しているに過ぎない」と考えるので、「合理的区別は正しいので、何も後ろめたいことはない」と対立するのです。
<

このあたりも、私の主張が端的に表現されているところだと思います。

***

「差別」の明確な定義はしていませんが、とりあえず「個々人の差異の方が大きな事柄を、属性によって判断すること」あたりでしょうか。

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差別は形式的に定義するしかないと私は考えてます。歴史や文化や実感を持ち込めば、共通基盤の構築は不可能だと思う。現実的には、多数派を構成できさえすれば「コンセンサス」の形成には十分なのでしょうが。

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それは「アメリカの多数派は外国籍の者からの指紋採取を差別と考えていない」だけの話で、「だから差別ではない」と私は認めない。そういう文化ベースの判断を、私は否定しているのです。

***

ヴィーガニズムは「人は正しく生きることができる」という「欺瞞と思い上がり」への挑戦
http://h.hatena.ne.jp/deztecjp/83458760220227575
それが差別であることまで否定したら、おかしなことになる
http://h.hatena.ne.jp/deztecjp/316608380790742754
補遺
http://h.hatena.ne.jp/deztecjp/81805486078687665
刑務所は人権侵害を認めて課題と向き合ってきたからこそ存続できている
http://h.hatena.ne.jp/deztecjp/227134581656878199
deztecjp

刑務所は人権侵害を認めて課題と向き合ってきたからこそ存続できている

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結局最終的に「犯罪者に拉致監禁という犯罪をする警察と国家は犯罪者!! 犯罪を止める方法は他にもありそっちは禁止してない!!」という「そもそも君ら国家に住むのやめなよ。向いてない」としか言いようがない人らが
<

id:zyzy 容疑者の拘束、有罪と確定した受刑者の拘禁等が人権侵害であることは、論をまたないと思います。もし「それは人権侵害ではない」と主張する方がいれば、「人権侵害ですよ」と、私は反論します。

人権侵害だから、すぐやめろ、といいたいのではない。しかし、人権侵害であるとさえ認めなくなってしまえば、「人権侵害の程度を必要最小限度とするための不断の努力」が途切れてしまいます。かつて刑務所では冬になると凍死者が出ました。受刑者に十分な暖房設備を提供する必要を認めなかったからです。現代ではもちろん、そのような状況は解消されています。

「してよい人権侵害」など、ありはしない。本来、犯罪者だからといって、人権を侵害してよいわけではない。しかし治安維持や更生促進のため、やむを得ず最小限度の人権抑圧を行う。あくまでも「必要悪」であって、有罪が確定した受刑者を刑務所に閉じ込め自由な生活をさせないのは「正しいこと」ではない。

だから、目的に照らして不必要な拘束はできる限り減らさねばならない。受刑者の人権は、基本的に一般人と同様に守らねばならない。

女性専用車両に対していいたいことも、これと同じです。本当に今すぐなくせと主張している方もいるのでしょうが、批判している側の多数は、そうではないでしょう。女性専用車両は男性差別に違いないが、必要悪として認める。私も含め、そういう方が多いと思います。

それでも少なからぬ批判者がこれだけカリカリきているのは、「差別には違いないですよね?」という意見に対して、「女性専用車両は全く正しい方策であって、些細な批判も許さない」という態度の方が目立つからだと思います。

受刑者の自由を奪うのは全く正しい。人権侵害だなどとケチをつけるのは許さない。文句をいうなら代案を出せ。zyzyさんが仰っているのは、そういうことではありませんか。

私は、受刑者の自由を奪うのは必要悪なので、その悪を最小化するために不断の努力が求められると考えますし、それが人言侵害であることを忘却したかのような主張があれば強く批判します。そして、わかりやすい代案が必要だとも認めません。刑務所をなくすのは非現実的ですし、これまでの関係者の努力も十分に認めますが、だからといって「刑務所の存在は善で正しい。刑罰を人権侵害だなんていうな」なんて言説を支持できるわけもない。

犯罪がなくなれば刑務所も必要なくなるのに、どうして犯罪者ではなく刑務所を人権侵害だなどといって批判するのか。

という人がいたら、どう思いますか。私は、「それぞれに批判すべき」だと思います。犯罪を減らすことは必要。しかしそれはそれとして、刑務所が不必要な人権侵害をしているなら、それは改めるべきですよね。

女性専用車両についていえば、今すぐ改善すべき重大な問題点があるとは、私は考えていません。私自身は、たまたま今はてブで話題になっているから、女性専用車両を切り口として持論を多々述べる機会とさせていただいただけのこと。各種世論調査でも女性専用車両支持派が断然多数派ですし、積極的擁護派がそんなに頑なな態度を取る必要のある場面ではないと思う。

女性専用車両存亡の危機などではないからこそ、「男性差別ではあるよね」くらいのことは、共通認識として普及を認めたっていいんじゃないですか。それは敗北への蟻の一穴などではなくて、女性専用車両をきちんと存続させていくための礎です。

刑務所がもし、明治時代の網走刑務所のようなあり方を是とし、「これは人権侵害ではない。人権云々の批判は全て不当」といって一切の改善を拒否していたら、どうなっていたでしょうか。おそらく、どこかの時点で刑務所の壁は市民によって破壊されていたはずです。革命に際して刑務所が打ち壊される事例は、過去にいくつもあります。特定の誰かを救出しようというのではなく、不当な人権侵害への怒りは、犯罪者の解放すら自己正当化するということなのです。日本の刑務所が、そのような暴力的破壊を経験せずに済んだのは、よいことでした。それは先人たちの努力によって、なしえたことです。

繰り返しになりますが、私は現状、痴漢対策としての女性専用車両に特段の改善すべき点はないと思います。しかし「これは男性差別ではない」とか「正しい方策にケチをつけるな」というような支持派に対しては、モノ申したい。

女性専用車両を擁護するのに、その差別性を否定する必要は全くないはずです。それは、刑務所の人権侵害を認めることが、刑務所の存在を否定することにつながらないのと同じです。

女性専用車両は、差別だが必要悪。その悪を最小化する不断の努力が必要。「差別ではない」といって、悪から目を背けてはいけない。むしろきちんとその差別性と向きあって、不必要な差別性の強さがないか、チェックし続けるべきです。それは、うるさい少数派の主張に耳を傾け続ける、うんざりするようなことかもしれないけれど、多数派の支持に胡坐をかいて安閑としているのが本当に「正しい態度」でしょうか。

「人権を守る」「差別と闘う」というのは、少なくとも一面において「受刑者の待遇を改善し、女性専用車両の運用を見直し続けるようなことだ」と私は思います。

http://h.hatena.ne.jp/deztecjp/83458760220227575
http://h.hatena.ne.jp/deztecjp/316608380790742754
http://h.hatena.ne.jp/deztecjp/81805486078687665
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女性専用車両への批判を切り分ける
女性専用車両への批判を切り分ける

施策の目的への批判
なし

施策の方法への批判
c. 施策の効果の是非
痴漢被害の総量を減らす効果があろうとなかろうと精神的効能はある。
d. コスパやコスト負担のバランスの是非
とくに意見はない。
e. 他のルールやポリシーとの衝突の是非
「差別含みの施策だが、諸々勘案して、許容範囲内」という受容のされ方であるべき。「差別ではない」とか「より大きな問題を解決するためなら正しい」という主張には、与しない。
f. 副次的な悪影響の是非
特段の悪影響はないと思う。

正直、女性専用車両自体は、現状維持で構わないと思う。

私の関心は、社会がそれをどう捉えるか、という点。この件に限らず、恣意的に線を引いて、構造的には同じものを、「これは正しい。些細な批判も不当」と「断固、許せない。排除すべし」に峻別する人々には、憤りを感じている。なんて身勝手なんだろう、と思う。しかも彼らは、それを身勝手だとは認めない。まあ、いい。考えの違いはあっていいのだ。私は私の意見を書く。

差別の構造を持つ仕組みは、一律に「差別である」と認めるべきだ。そのうえで、「これは差別であって、本来は解消すべきだが、諸事情を総合的に判断すると、現状では許容」というのを、社会的なコンセンサスにしたい。そういう枠組みでなければ、価値観の多様化した社会において、共通の議論の基盤となりえないだろうし、ある問題に対処するために導入された手段によって生じる諸問題について、爆発するまで抑圧する体制が今後も続いてしまう。

女性専用車両についていえば、そんな決定的に悲惨な爆発など起きないと思う。大した問題ではない。議論の結論として、女性専用車両の導入を推進した側は、形式的には一切譲らなくて構わない。だからこそ、落ち着いて、話に耳を傾けてほしいのだが。

***

混雑してない電車でも痴漢は発生しているが、それはそれとして混雑を解消したいのであれば、方策は簡単だ。既に、答えは出ている。

・需給が一致するまで価格を上げよ。

答えがわかっているのに、受け入れを拒否し続けてきたのは市民の側。混雑する列車に対して「目標の混雑率を実現するまで、時価で無制限の価格引き上げを認める」ことにすれば、中期的に混雑は解消される。

上がった分の電車賃は、何をどうしても結局は市民が負担することになる。しかし目先の負担回避をどうしてもやりたいなら、企業に通勤交通費の支給を義務付けてもいい。(中期的にそのぶん給与が下がってバランスするだけのことだが)

都市には集積の利益があるから、企業が自ずと集まってくる。政策的に無理に企業を分散させれば、生産性が低下して、結局は労働者の収入が減る。どうしたってフリーランチは存在しない。

結局、「混雑を我慢する」のが、これまでの人々の選択だった。混雑解消のコストは、ほんの少しずつしか、負担してこなかった。当面、劇的な解決策に支持が集まることもないだろう。

***

もともとの問題意識にはなかったことだが、今回の「ブーム」で心底ウンザリしたのが、「男性専用車両も作ればいいだろうに」という主張。

「女性が優遇されている、ズルい」という考えで女性専用車両を叩いている人もたしかにいるので、それに対するカウンターなのはわかるけど、「差別だからよくない」と批判している人からすると、完全に間違った反論なのだ。差別だからという理由で白人専用車両に反対する人は、黒人専用車両だって支持しない。なぜそれがわからないのだろう。

「あんたらにはいってない」というならまだいいが、「男性専用車両で解決」といって「はい論破」的な態度を取っている人らは、「差別が問題」という批判を完全に無視している。私だけでなく何人もが明確に述べていることが、どうして目に入らないのか。何なんだこの人らは……と、どんどん怒りが増幅していった。

かつてアメリカで強く批判されて解消された白人専用車両と構図は同じだという批判に対して、「差別者の白人を排除するための黒人専用車両は差別ではない」という反論も、繰り返し出ている。「黒人専用車両だって差別だ」「全ての白人を一律に差別者扱いして排除するのが差別でなくて何なのか」と思うのだが、これもさっぱり理解されない。

別に同意しろとはいってない。相手の主張を踏まえたうえで、どの部分で前提を異にするから結論が異なってくるのか、という考え方をしてほしいのだ。権力勾配を重視して、弱者が強者を排除する「防衛」策は「差別ではない」という考えなら、それはそれで構わない。私とは意見が合わないだけだ。こっちはそうやって、できる限り理解しようとしているつもりなんだが。

……とはいうものの、自分のブコメを読み返してみると、こっちも相手の主張への理解の言葉を添えていない。まず「我が振り直せ」ってことなんだろうし、ああ見えて、あちらさんもこちらの主張は理解してくれているのかもしれない、と思って落ち着いた。
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そもそも、あれで「男性は差別されてる」と思ってるの不思議なんだよな。男性の中に痴漢がいるだろうとは思われてるだろうし、それを否定でもするの?って話で。
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id:mohno 心の中で疑うだけならそれは内心の自由だし、疑いの気持ちを表に出すことも、まあ一定程度までは表現の自由といってもいいと思う。よくわからない人物について、その属性などを根拠に一律に悪い仮定を置くのは差別であって、それはよくないことだけれども、現実問題、ある程度まではそれを許容しなければ人間は生きられない。

だけど、それが差別であることまで否定したら、おかしなことになりませんか。

以下、mohnoさんがそうだという根拠など何もないので、このところ思っていることを、mohnoさんに向けて書いてもお門違いの話になりますが、とりあえず書きます。

・差別は絶対ダメだと考えている方がいる。
・現実には何らの差別もせずに人は生きられない。
・自分が許容している範囲内の差別は「差別ではない」とする。
・自分のしていることは「差別ではない」ので後ろめたさなどないし、現状を改善すべきだとも思わない。

なんかこういう欺瞞が、よくあると思っているんです。

例えば「憲法は合理的区別を認めている」の解釈って、大きく2つあるわけです。私は「憲法は現実的に人間の限界を考えて一定の悪を許容しているに過ぎない」と考えるので、「合理的区別は正しいので、何も後ろめたいことはない」と対立するのです。

「犯罪者の大半が男性なので、男性全体を犯罪予備軍として立入禁止にします。だって怖いからです。同じ車両に男性がいたら安心できないからです」というのは、差別でしょう。私は、それは自明だと思ってます(が、自明と感じない人がたくさんいることはわかってます)。

いま、はてブでは女性専用車両反対派として書いてますが、別に今すぐ全廃すべきだとは、じつは私は思ってません。ただ、差別は差別であり、悪に悪をもって対するの手法であり、そこに「悪を背負う」意識がないとおかしいと思う。

ヴィーガニズムの話題と、私の中では問題意識がつながっています。私はヴィーガニズムの支持者で、「食べていい命はない」と思っている。でも私は「食べずに死ぬ」ことができない。それどころか、私は肉食すら我慢できない。だから私はいろいろ食べて生きているわけですが、「自分に可能な範囲内で殺生は減らしたい、少しでも自分の罪は小さくしたい」と思っている。罪の意識があるからこそ、常に抑制が働いている。

どこかで線引きをして、「ここから先は食べてもいい命、食べることに何ら罪の意識を感じなくていいんだ」という考え方はしていない。まあヴィーガンにもいろいろあるから、みんなが私と同じだとはいわないけれども、「植物なら食べていいと思っているヴィーガン」という、はてブでされていた批判は、的外れだと思う。

で、何がいいたいのかというと、差別というのもこれと同じように考えているわけです。「ここから先はしていい差別」という区切りを私は認めない。どんな差別もダメなんだけど、でも人間の能力は限界があるので、差別はせざるを得ない。だからある程度の差別は許容する。でもそれは、「この差別はしていい」ってことではない。「いけないんだけど、する。だから罪を背負う」という向きあい方じゃないとダメだろう、と。

これは性犯罪を恐れる人だけに罪の意識を押し付けるという話ではないです。私は、はてブの文字数には収まらないからはてブには書いてないけど、実際には「女性専用車両も、当面はやむなし」と思っていて、それはつまり差別を許容するということだし、女性専用車両の廃止運動など今後もしないわけであり、私自身が当然に差別の罪を背負う。ただ、これはよくないことだと思っている。思っているからこそ、できる限りこの差別は最小化したいと思うわけです。「合理的区別なのでOK」と胸を張る立場の人は、何の罪の意識もないのだから、差別最小化の動機もないし、女性専用車両が半永久的に存続しても心が痛まないわけでしょう(痴漢犯罪がなくならないことには心を痛めても、その対策として女性専用車両を運用するという対策方法については心を痛めない)。

差別反対なら女性専用車両も差別だから今すぐやめるべき、といいたいんじゃないんです、少なくとも私の場合は。でも、女性専用車両のような手法について、何の後ろめたさもないように見える人々に対しては、「そりゃおかしいでしょ」と思うんですよ。それって、自分で掲げた正義を、自ら裏切ってませんか、と。それに対して、もし「そんなことありません。差別反対と、何ら矛盾しません」というのが回答なら、「私は、あなたの差別反対は不徹底だと思うし、批判する」となるんです。

女性専用車両は、差別批判を受け止めたうえで、「やむを得ない措置」として必要最小限に実施していくべき。私はそう考えてます。

***

まあ、世の中にはもっと堂々たる「悪」はいくらでもいますよ。話が通じる感じが全然しないような。本来、批判するなら優先順位はそちらが上でしょう、と、私もそう思う。しかし私は、私の考える優先順位の通りに行動できない。これも自分の限界だけれども、だから仕方ない、とは思ってません。その点を批判したい方がもしいれば、何も反論はないですし、私自身、心にやましさは感じてます。

まあ第三者的には、やましさがあろうとなかろうと、本来は優先順位の低いことは承知の上で「女性専用車両の差別性」なんてものをくどくど書いて、「そのおかしさを批判したければどうぞご勝手に」と開き直っているだけです。そんなヤツのいうこと聞く耳持たぬ、という人がいても、それはそれで心情的にはわかる。

どう見られようと、私は私の限界の中で、やれることをやるしかない。物理的に可能ということと、現実に可能なことの差は大きく、なぜ実際のアウトプットがこんななの?というのはありますが、40年近くそれで悩んできて、結局ただ悩み続けることしかできなかった。
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ヴィーガニズムにもいろいろあるので、私が以下で述べるのは、ある種の原理主義のことだと思っていただきたい。

私はヴィーガニズムの支持者ではあるが、ヴィーガンとして生きてはいない。際限なく悪を為す大悪党として、私は日々を生きている。それがいかなる心情であるかは、8年前に書いた。

少数派の言論の自由と、命について
少数派の言論の自由と、命について

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物心ついた頃から、私は、自分の命が、他の多くの命に支えられていることを認識していた。そして、自分にそれほどの価値があるとは、どうしても思えなかった。牧場へ行って柵の中で暮らす牛や豚を見ると、申し訳ない気持ちになった。幼稚園のイベントで芋掘りへ行けば、本来、サツマイモは翌年に新しい芽を出すために根を太らせるのだと教えてくれる。どうして人間がそれを食べてしまってよいのか、私にはわからない。

私がムスッとしているのを見つけた先生が「焼きイモおいしいね!」という。私は板挟みになって悩み、結局、笑顔を作って焼きイモを食べてしまう。自分は、こんな、こんなことを言い訳にして、サツマイモが何ヶ月もかけて太らせてきた命の源を食べてしまうのだ。悲しかった。イチゴ狩りにも行った。イチゴの実には、小さな種がたくさんついている。「この一口で、どれだけの命が未来を奪われるのだろう?」私はいまだに、種の数を調べたことがない。

自分が死んだら親が悲しむとか、そんなことはいくらでも思いつく。だが、それが私の生き続ける最も重要な理由ではないことには、気付いていた。私は、死を恐れ、快楽と怠惰を求め、ただそれだけのために他の命を犠牲にし続けているのだ。

幼い頃、私は夜、布団の中で丸まってシクシク泣いていることが多かった。静かで長い夜は、あさましく生きる自分を見つめる機会を提供してくれた。私が泣いていることで母がひどく胸を痛めていることを知って、私は感情を押し殺して心の中で泣くようにしたが、基本的な世界認識に変わりはない。

(中略)

鶏に感情移入して怒るというのもおかしい。私が一時期、観察した限りでは、鶏は卵を人間に取られたことを認識できていないか、日々忘れていっているように見える。餌さえもらえれば、喜ぶ感じだ。鶏は怒っていない。卵を取ることに胸の痛みを感じるのは、自分の問題であって、じつは鶏は関係ない。

まだ若い実を奪われるイチゴも、当然、何も考えていない。イチゴは悲しまないし、怒りもしない。逆に、イチゴは人間のために実をつけているのでもない。ただ、生きている。
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懇切丁寧に書いたつもりだが、最初から理解する気のない人には理解できまい。

私の理解では、ヴィーガニズムは「人は正しく生きることができる」という「欺瞞と思い上がり」への挑戦である。多くの批判は、「そんなこといったら人は正しく生きられないということになってしまうではないか」という前提に基づいており、初手からすれ違っている。

その意味で、先日はてブでちょっと話題になった反出生主義と、「なぜ話題になったか」「見当違いの反応を浴びせて全く理解する気のない人が多いのはなぜか」という点について、構図を同じくしている。

はてなブックマーク - ヴィーガニズムは正しい。正しいがゆえにそれは人類社会の敵である
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id:camellow 結局どこに線を引くかが違うだけで線引き自体は必要。そうでなければ虫どころではなく草や土や石を踏むこともできなくなる。
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人は罪を重ねて生きていくしかない。ヴィーガニズムとは、そういう主張だと思う。正しく生きることなど、人にはできない。どこかで線を引いて、線のこっちで生きている分には自分は間違っていないのだと、正しく生きられるのだと、そういって安心することを否定するのがヴィーガニズムである。

私自身はふつうに動物食もする。行動面では全くヴィーガンではない。だが、「動物食は正しい」と胸を張らない点で、ヴィーガニズムの側に立つ人間である。

殺人の悪を認め、復讐殺人など間違っていると考えていても、自分の心の弱さゆえに復讐をせざるを得なかった人物を描くフィクションは多々あり、何度か目にされたことがあると思う。私はそういう立場に身を置く人間である。復讐殺人を否定する価値観を否定し、「悪を倒した自分は正しい」と断言して恥じないキャラクターとは違う。

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id:lastline ヴィーガニズムは植物を食べても(搾取しても)良い理屈を明示できない時点で正しくない。
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「植物なら食べてもいい」のではない。痛みや悲しみを感じる神経組織がない分、動物を食べるよりマシだといっているに過ぎない。いかなる命も犠牲にせずに生きることなど不可能だから、より悪の小さい生き方を選ぼうとしているだけのこと。

胸を張って食べていい命など、どこにもない。どこかに線を引いて、線のこちら側だけで生きれば「正しい自分」を信じて誇りを持てる、なんて都合のいい話はない。

ヴィーガニズムや反出生主義に接すると「じゃあ死ぬしかないね」と反応する人が少なからずいるが、そうではない。これらの思想は、実践的には「悪を背負って生きろ。正義面して生きるのは欺瞞だ」という主張なのだと、私は認識している。

悪いことだと思っていれば、悪を為さないことは不可能だとしても、自分に可能な範囲内で悪を小さくしようという気持ちが、常に働き続けるだろう。線を引いて、そこからこっちは正義だといってしまえば、そのブレーキが働かなくなる。

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ravell 動物側は人間を含めた他種族を差別しているように見えるんだけど、ここの整合性はどうとってるのかね。動物側からの殺生はキレイな殺生なのかしら?
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動物は倫理の体現者ではない。倫理とは、それを守らない者がいるから自分も守らない、というものではない。殺人者にも人権を認めるのでなければ、人権の普遍性など嘘っぱちである。生命を奪うこと、生命を虐げることが悪なのは、動物が倫理を持たないことによって、何ら反証されない。

動物による殺生も悪である。彼らはそのことで思い悩むことはないが、それによって悪が減殺されるわけではない。どこかに「正しく生きる」ものがいると考えるから、そういうことを不思議に思うのだ。全てのものが悪くしか生きられない。倫理なきものは、倫理なきゆえに、より悪の少ない生き方をできないでいる。そういうことでしかない。

人は倫理観を持つことができ、自分の生き方を、各々にとって可能な範囲内で、より悪の少ないやり方に制御することができる。減らせる悪は、減らすべきだ。
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『けものフレンズ』の2期から、たつき監督が降板した(らしい)件について。
1期のネタバレあります。

https://twitter.com/irodori7/status/912270635610472448

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houjiT さん、たとえ失敗作でもいいからたつき監督による『けものフレンズ』2期を見たいとまで仰られている以上、以下の内容は反論でも説得でもありませんが、いちおうIDコールさせていただ……こうかと思ったけど、やめときます。意味もなく、こんな長文記事を送り付けるのもどうかと。

『けものフレンズ』1期は、「オリジナル作品で先が見えない」ことを最大限に活かした作品でした。11話ショックはその頂点であり、監督が主人公を生存させるのか殺すのか、正直わからないことが最大のポイントだったように思います。

キャラを粗雑に殺す脚本家の場合、唐突にキャラが死んでも「想定の範囲内」で驚かれない。たつきさんは、1期でキャラを大切に大切に扱ってきて、それでもいざとなったら殺すかもしれないと思った。「まさか、殺さないだろう」とは思いつつも、絶対に殺さないとは限らないぞ、と。

でまあ、12話がどうなったか。死んだけど死ななかった、という展開になった。よくわからない人は、わからないでよろしい。でも、この一文だけでも、先に知っていたら、11話ショックを本当に追体験することはできない。

ただこれって、たつきさんが新人監督だったから、成立した話だったと思う。富野由悠季監督作品だったら、いくら途中までどう描いていようと、「まあ、いざとなれば監督は躊躇なく殺すだろう。実際にはこれまで主人公を殺したことはないが、今回初めて殺しても驚かない」と思いながら見てしまいます。そこに11話が来ても、「いつか来ると思ってたよ」という思いが先に立つし、主人公が死んでも死ななくても驚かない。

たつき監督は1期で視聴者の期待に100%応えてみせたけれど、その結果、次回作以降とてもやりづらくなりました。それは、監督が背負っていかなきゃいけないことで、まあ仕方ない。(突き放したような書き方をしましたが、私は『C』『ガッチャマン クラウズ』『PSYCHO-PASS サイコパス 2』『てさ部シリーズ』と、主な関与作品は一通り見てる程度のファンです)

でも、けもフレ2期はどうだろう。『けものフレンズ』のゲーム版は、アニメがヒットしてから見直されましたが、ふつうに面白いストーリーが用意されていたのでした。しかしヒットしなかった。なんでアニメ版がヒットしたのかはよくわかりませんが、何より先が見えないストーリーが良かったんじゃないでしょうか。しかしその点を2期でも踏襲して、先の見えない旅をする物語を同じたつき監督が繰り返した場合、視聴者は安心しきってしまうと思う。それを無理に裏切れば「余計なことをした」といわれるだろうし、裏切らなければ縮小均衡は免れない。(でも、1期で用意した以上の謎って、用意できるものなんでしょうかね?)

これほど大ヒットした作品なのだから、縮小均衡でいいではないか、ファンが飽き飽きするまで縮小均衡の道を堂々を歩めばいい……ともいえますが、ならばそれこそ、たつき監督が貴重な人生を費やしてまでやる仕事ではないと思う。

では、監督が交代すれば、どうなるか? 1期をほうふつとさせるようなストーリー展開であっても、究極的に話がどう転ぶか、またわからなくなります。けもフレ1期のドキドキ感は、2度繰り返すのが難しいものです。もし繰り返したかったのなら、『LOST』のように、シーズンの区切りでスッキリ「させない」工夫が要る。1期12話で素晴らしい結末を提示してしまった以上、1期の成功を再現しようとすれば、1期とは異なるスタッフが必要になるのは道理です。

あるいは、1期とは全く違った物語を用意して挑戦する道もあります。それなら、たつき監督が挑戦するのも面白い。……ただ、それならそれで、監督を交代するという選択肢が無視できなくなってくると思う。

『エイリアン2』は、リドリー・スコットではなくジェームズ・キャメロンが撮りました。それでよかったと思う。

『ダイ・ハード2』は、ジョン・マクティアナンではなくレニー・ハーリンが撮りました。これもよかったと思う。ハーリンが密室劇という縛りから一歩踏み出したので、『ダイ・ハード3』で復帰したマクティアナンは、また自由な発想で作品を作れたし、シリーズも長く続くことになりました。

以上、1期を踏襲するにせよ、全然違う2期を作るにせよ、成功するか失敗するかはわかりませんけど、けもフレ2期は他の監督に任せてもいいんじゃないかな、と。

私はけもフレのオフィシャルガイドブック全6巻を買って読みましたが、その感想として、むしろ2期より新作を見たいと思ったんです。3Dアニメの利点を活かして、何度も手戻りしながら仕上げていったという1話制作時のエピソードなどを詳しく知るにつれ、当然たつき監督は2期を作りたいのだろうけど、たつき監督に若さと体力が残されているこの数年間を、いったんスタイルが完成したけもフレに費やすのは、もったいないんじゃないかと。

ある程度、いろいろやってから、また戻ってくるなら新しい価値が出てくると思うのですが、「鉄は熱いうちに打て」は、むしろたつき監督自身のことであって、けもフレは待っててくれると思うんです。たつき監督に任せても、また2年か3年かかるわけじゃないですか。監督自身はずっと作業を続けているのに、作品は「お久しぶり」で、その内容がもし1期のまんま続きだったら……。

ま、コンテンツの寿命が延びてる昨今のこと、私の懸念は杞憂に過ぎないのかもしれませんけれども。

マイケル・ベイの『トランスフォーマー』、気付けば10周年で夏に3年ぶりの新作。アメリカではふつうにヒットしたらしい。ドラクエも5年ぶりの本編新作が大ヒットした(堀井雄二さんはその間にもエグゼクティブディレクターとしてDQ関連の新作を18作品も発表していますが)。どちらも新しい要素を盛り込んでいますが、骨組みは過去の作品の延長上にあって、驚きがない。それでもファンは歓迎したのでした。
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id:Knoa ミャンマー国民が「不法移民」のロヒンギャ排除を強く支持しているのは事実ですが、スー・チーさんがロヒンギャ融和策を訴えたら本当に支持を失うのか、それは不明です。

スー・チーさんがリベラルな信念の持ち主なら、リスクを冒してでも、正義を訴える方を選んだのではないでしょうか。

しかし功利主義的に考えるなら、ここでスー・チーさんが退場しても、次の為政者がロヒンギャ攻撃を続けるに決まっているわけです。ロヒンギャは見捨てて、スー・チーさんが現在の地位にとどまり、他の問題の解決に勤しむ方がマシだという考え方も可能でしょう。

スー・チーさんが本音でも排除支持なのか、苦渋の決断で座視しているのか。いずれにせよ、スー・チーさんが「自分の存在が助けになる」と考えた人々の中にロヒンギャは含まれていなかった、とはいえると思います。

***

国民の大多数が強く望むことを、一存で止められるような権力者が、民主国家にいていいのかどうか。あるいは、そんな権力者が存在する国が、民主国家と呼べるのか。

スー・チーさんがロヒンギャ排撃を止められないのは、自然なことではあると思います。

かつての軍政は、軍政であるというだけでもアメリカ等から抑圧され続けており、国際社会の武力介入を避けるため、また経済制裁の強化を避けるため、どんなに国民の圧力があってもロヒンギャの徹底討伐を行うことができませんでした。国民の希望を無視しているわけではありませんよ、というポーズを示す必要はあったものの、国際社会からの決定的な非難を招くような事態は避けざるを得なかった。

この事例に倣うならば、スー・チーさんだって、以前と同程度の抑圧に留めることは可能なように思います。ただしそれは、今すぐ権力を失わずに済むというだけの話で、次の選挙や、党内の権力抗争での将来的な敗北を招く原因とはなり得ます。

あるいは国際社会の側も、相手が軍政からスー・チーさんに変わったからといって、軍事介入や強力な経済制裁をも選択肢から外さないことが、当座の悲劇を抑制するためには必要なことだろうと思います。万が一、スー・チー政権が倒れて、旧軍派が政権に復帰してでも、そうするんだ、という覚悟が必要ではないでしょうか。

それはできないというなら、結局は、ミャンマー国民に民主主義を与えるためにロヒンギャを見捨てるってことです。いまのスー・チーさんと同じです。

***

ミャンマーを「ビルマ族を主とする民族国家」と考えれば、たしかにロヒンギャは異民族です。ロヒンギャは現ミャンマー領土に伝統的に暮らす部族ではない。また彼らは言語、宗教、生活習慣のいずれについてもミャンマー人への同化を拒否している。

ラカイン州はラカイン族の王国が長く治めた土地で、ビルマ族が支配したのは18世紀から。19世紀にはイギリスが支配したのだから、ビルマ族の土地ということはできない。ただラカイン族とビルマ族の社会は共通点が多く、交流と融和が進んだ。ビルマ独立直後にはラカインは自治州になるという話だったが、結局立ち消えになった。自治州支持派からすればビルマ族の抑圧となるが、現時点では自治州支持派も少なく、融和を目指した側が平和的に勝利したといえる。

ロヒンギャがラカイン州で大きな勢力となったのはイギリス占領下でのこと。前述の通り、ロヒンギャは先住民族との融和を拒否したから、ラカイン族とロヒンギャは激しく対立することとなった。そして、イギリスが去った。

ミャンマー国民から見れば……「伝統的ミャンマー人」の範疇にない人々が、ミャンマー人たちの伝統的領土に居座っている。彼らはかつてイギリスが認めた移民であっても、民族国家ミャンマーからすれば不法移民である。当時のミャンマー人は虐げられており、国家の主権を発揮できなかっただけだ。ロヒンギャは元いた国へ帰るべきだ。……ということになる。

ロヒンギャが移住した時点では不法ではなかったのだし、移住して100年以上も経てばミャンマー以外に「本来の居場所」は存在しない。ミャンマーは彼らを国民を認めるべきだ、とは思う。

ただ、ロヒンギャの人々が武力闘争を勝ち抜くのではなく、平和的な解決を目指すなら、ミャンマー人の社会の中に居場所を得られるよう、様々な点で譲っていく必要もあるはずです。最低限、言葉は学ぶ必要がある。ロヒンギャ側が何も譲らずに、ミャンマーに居場所を得るというのは、まず不可能な話に思える。

これを「偏見の問題」というのは片手落ちです。たしかに偏見はある。しかしロヒンギャの側が、「ミャンマー人国家の中に入って生きていく」ことを拒絶し、自分たちだけで固まって生きていこうとしていた、しかしその土地は伝統的にはミャンマー人(ビルマ族もラカイン族も現在は「ミャンマー人」という意識を持っている)の土地だった、という話でもあるのです。

ロヒンギャがどうしてもミャンマー社会への融和を拒絶するなら、国際社会の圧力でミャンマー人の気持ちを無視して無理やり自治区を作るか、さもなくばバングラデシュを支援して移住を可能とするくらいしか先はないんじゃないでしょうか。
deztecjp

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ご意見、拝読しました。
記事の追記の方も拝見しました。
どうもありがとうございます。
deztecjp

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>
結局、叩く必要はなかったと思う。手を掴んで舞台袖へ移動させることも可能ではなかったか。一人では無理なら助けを呼んでもよかった。私は、その場を動かない子を、力づくで移動させることまで体罰とはいわない。
>

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>
rag_en こういうのが正に『後から出てくる「射殺する必要はなかったのではないか?」的意見』っぽいんよね。
>

私が書いているのは、たしかに『後から出てくる「射殺する必要はなかったのではないか?」』の類です。私は、そういう議論は社会に資するものだと思ってます。

私は旗幟鮮明なブコメのいくつかにスターをつけてから自分のコメントを書きましたが、自分自身は、そう明快なことを書く気には、なれなかった。

日野さんが中学生を叩いたのが「よいことだった」とは思わない。あのとき日野さんはそうする他なかったのかもしれない。それでも、日野さんが正しいことをしたとは、私は考えない。

日野さんには他の手段を取るのは無理だったのかもしれないが、よりよい手立てはあったのではないか? あのとき、1秒でも早く中学生を止めることは、本当は最優先ではなかった。髪を掴んで頬を叩いてしまうより、スティックを奪われても素手でドラムを叩き続けた中学生に呆然とでもしている方が、よほどよかった。

私は日野さんを、責めないが、支持もしない。この件を通じて、同じ状況で人を叩かない方が少しずつでも増えていったらいいと思う。

あと、人を力づくで移動させることだって、暴力の一形態には違いない。何かの抗議行動で座り込みをしている人を、安直に強制排除してよいとも思わない。しかし今回は、強制排除を支持できる状況だったと私は考え、自分なりの許容ラインを、ブコメで示しました。

その根拠を問われれば、「私の価値判断だ」ということになる。異見のある他人に対して、説得力があるとは思わないが、別にそれはそれで構わないと思っている。

***

病院の待合室で日野さんのインタビュー映像が流れていたけれど、日野さんは反省していなかった。別に、それでもいいと思う。特定個人の意見を変えたいとは思っていない。
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公立校は必要ないですね。全部、民営でよいです。教育バウチャー制なら、公営と民営を分ける意味がない。義務教育を公費で支えることは必要でも、学校自体が公営である必要はありません。

> 大学の教育学部は、教員養成のためにあるのであって、教育研究のためにあるのではありません。教育研究をするのは、小中高の教員であって、大学の教員ではありません。

これはもう明らかにblueboyさんの思い違いなのですが……。まあ、私はもういいたいことをいったので、もういいです。
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まず、現場の教員による研究・実験なら、ふつうの公立校・私立校でもやっていることなので、国立校存続の理由にはなりません。

ともかく私が指摘したかったのは、国立大学の付属校は、基本的には大学の教育研究のための実験場だということです。そして、大抵の教育研究は「ふつうの学校」の改良を目的としているので、実験は「ふつうの学校」で行いたいのです。特殊な学校でうまくいっても、その手法を「ふつうの学校」に適用できるとはいえないからです。だから、付属校が特殊な学校になってしまっている状況はヘンなのです。

blueboyさんは個人的体験から、国立学校と教育学部とは無関係と勘違いをされていたのかもしれませんが、あるいは筑駒は特殊で本当にただ放置されているのかもしれませんが、付属校は「教育の実験場」というのが本来の意義なのです。

だから、学校の特殊性ゆえに実験が少ないなら「ふつうの学校」に作りかえるべきだし、そもそも実験の需要がないなら廃止した方がいい。そうして浮いたお金で、試験選抜式の奨学金制度でも作れば、記事にあった懸念にも対応できるでしょう。私学にやれることを国立でやる必要はないです。お金は限られているので、より効率的な使い方があるなら、不合理な国立校は廃止する方がいい。

国立の小中高校というのは、本当に国立である必要があるのか、もともと疑問が大きい。研究目的にせよ、教育実習先の確保が目的にせよ、「近隣の公立校と大学が提携すればいいだけ」という主張が、昔からあるのです。
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id:blueboy まず、一般教員による授業研究はどこの学校でもやっていて、それは公立、私立を問いません。公立の小中学校、高校でもやってます。そういうのに熱心な教員が多い少ないの差はあるにせよ、私の通った私立校(小中高)でも、弟が通った公立校(小中高)でも、「教師の独自研究に基づくヘンな授業」は行われてました。ともかくそういうわけで、教師の授業研究は「国立校ならでは」ではありません。

さて、そもそもなぜ教育学部に付属の小中高校があるのかといえば、それは学生の実習先の確保と、教育研究のためです。blueboyさんは偶然、体験されなかったのかもしれませんが、付属校では様々な実験や調査が行われています。私の出た千葉大学の付属校(小学校と中学校があった)では、多種多様な実験や調査が行われていて、その成果(あるいはチャレンジしたけど成果が出なかったことの報告)は、様々な形で公開されていました。

でも、付属校はサンプルとして不適だとして、わざわざ公立校で調査や実験を行う事例もありました。そうなると、何のために多額のコストを投じて付属校を用意しているのか、という話になりますよね。例えば学級崩壊対策の研究をするのに、最も無能な教師を派遣しても学級崩壊を起こさないような児童しかいない学校ではサンプルにならないわけです。一般公立校で発生する全ての問題が、大学の付属校でも発生するようにすべきです。だから能力の高い教諭も、低い教諭も、満遍なく赴任させるべきだし、優秀な生徒もそうでない生徒もいないとダメだと思います。

「エリート教育の研究」は、教育研究の雑誌を大量に読んでいた頃の記憶からいうと、ほとんど取り組みがない。社会的需要が少ないんじゃないでしょうか。あるいは、エリート教育は民間で勝手に研究が進むので、大学の教育学部がやる必要はないってことかもしれませんね。やっぱり「落ちこぼれをいかに減らすか」が最大のテーマであり、となると、付属校に落ちこぼれがいないのでは、研究に支障があるのは明らかだと、当時の私は思いました。今もその考えは変わりません。

あと、高校での実験は少なくて、千葉大には付属高校がないからかと最初は思っていたのですが、そもそも高校教育は義務教育ではないこともあって、あまり研究がされていないらしい。教育研究の雑誌を読んでも、私が学生だった2000年頃は、高校に関する話は極端に少なかったです。最近はどうか知りません。

blueboyさんの通った高校では、本当に何の研究も実験もされていなかった可能性もあります。その場合、そんな学校には存在意義がないので、今すぐ廃校にした方がいいですね。私学なら需要がある限り自由に存続すればいいでしょうけど、国立で特殊な高校を維持する意味は全くない。ただ実際には、大学の教育学部の研究紀要や卒業論文集などを読めば、付属校で行われた実験や調査の事例がきっと出てくると思います。それでも、その件数が少なければ、費用対効果を考えて廃校にすべきかもしれません。別に付属校でなくたって研究はできますからね。
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- 妥当性の低い著作権侵害の申し立て、とは考えていない。(引用には当たらない)

私の立場は、まずこれです。件の記事は、引用の要件を全く満たしていない。画像自体の内容について何ら論評していないから引用の必然性が何らなく、出典も不記載。著作権の侵害は明白です。

今回の訴えの主な意図は批判記事への対抗措置なのだろうと私も思いますが、「名誉毀損」などで訴える場合と異なり、相手の主張自体を取り下げさせようとしているものではないこともまた、客観的事実です。

削除申請の意図がどうであれ、画像の無断使用が権利の侵害であることに変わりはなく、Googleの検索結果からの削除を申請するのは正当な行為だと私は考えます。「権利」とは、そういうものでなくてはいけない。例外がほしいなら、議会を通して法律によって例外を作るべきであり、多数派世論が「これくらいいいだろう」といって少数派の権利を踏みにじるようなことが許されていいはずがない。

結局、問題の画像を削除しさえすれば、批判記事もいずれGoogle検索に復帰するわけだし、著作権侵害の訴えに、批判を封じる力などありはしません。ありもしない懸念を持ち出して、正当な権利の主張を否定するのは、多数派世論が認めれば著作権など踏みにじってよいとすることであり、そのような社会は「今は多数派の側にいる多くの人々」にとっても本当はよくないと私は思う。

「全体として良い記事なら一部に違法行為があっても許される」派にとっては、相対的に「不自由になる」のでしょうが、それは「放縦が是正された」というべきで、「言論の萎縮」とは捉えません。

***

- 相手の消耗や遅滞を目的とした著作権侵害の申し立てである、とは考えていない。(純粋に著作権侵害を主張したと信じる)

申請の目的とは関係なく、権利の侵害は事実なので、是正されるべき。

- 相手の消耗や遅滞がある、とは考えていない。(大した嫌がらせでもないので問題ない)

消耗や遅滞があっても関係ない。画像の無断使用などしなくても、件の記事の趣旨には全く影響しないのだから、無意味な画像の無断使用です。

全体として真っ当な記事だとしても、画像を無断使用していいということにはならず、今回その悪事に見合った罰を受けたにすぎません。これまで見逃されてきたのは、むしろ「たまたま」でしかない。

本来、訴えられたから対応するというのではなく、各自が最初から画像の無断使用などしないよう、自制すべきである。

関連:私は「コミケ不支持、当日版権システムを構築したワンフェス支持」でもありまして。301 Moved Permanently

- 相手の消耗や遅滞を目的としている妥当性の低い著作権侵害の申し立て、であると考えているが、批判者にも隙があったので濫訴もやむを得ない。(相手方の過失と相殺?)

目的によって妥当性が決まるのではない。擁護不可能な画像の無断使用であることは(私からすれば)明らかであり、権利侵害の訴えは「濫訴」に当たらない。

なお、どの侵害を黙認するかは権利者の自由な判断でよいはずです。
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id:Lhankor_Mhy 権利の侵害への対抗措置に対して「SLAPP訴訟だ」と批判することには、基本的に反対です。

名誉棄損の訴えの場合、それは言論そのものをダイレクトに攻撃するので、言論の自由と鋭く対立します。だから安直な訴えを戒めるのも理解できますが、今回のは画像の無断使用ですよね。別に画像を無断使用しなくたって、批判はいくらでもできるでしょう。全体として批判が正当であろうとも、画像の無断使用まで正当化できるとは、私は考えません。

なので、「それはそれ」「これはこれ」と考えるべきで、批判記事は画像の無断使用を解消して再投稿すればいい。

しかも、損害賠償の請求があったわけでもなく、裁判所への出廷を求められているわけでもない。こんなことで「言論が委縮する」とみなすのは、私は無理筋だと思います。仮に従来と比較して相対的に「萎縮」するとしても、それはむしろ従来の放縦が過ぎていたのだと思います。
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id:nao_cw2

たぶん使うことはないと思いますが、ハイクでハイクに「返信」する場合には、IDコールしなくても通知がとびます。ご参考まで。
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id:nao_cw2 テストです。ハイクからIDコールの通知が届くことをご確認いただけましたでしょうか? 返信は不要です。無視してくださって構いません。
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id:potohud ブコメへのIDコールへの返信、私は「はてなハイク」使ってますよ。
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補足すると、願望はあるけど要望はない。「伝わればいいな」とは思っているけど、「伝わらなくてもいいや」とも思う。

あと、疑問がないというのは、「回答がほしい疑問はない」という意味。疑問自体はたくさんあるが、別に質問したいと思わない。


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